部屋に入った途端、むせ返りそうになる。
水が満たされた上に配置されており、周囲には蓮が花を咲かせているが、その香りですら打ち消せないほどに、血の匂いが充満していた。
その鬼の周りには、女の死体が積み上がっている。
間違いない。これが姉の仇。
頭から血をかぶったような、鬼。
にこにこと屈託なく笑い、穏やかに優しく喋る。
そして、使う武器は、鋭い対の扇。
「私の姉を殺したのは、お前だな?この羽織に見覚えはないか」
「ん?ああ!花の呼吸を使ってた女の子かな?朝日が昇って喰べ損ねた子だよ。覚えてる。ちゃんと喰べて……」
注意をされていたのは覚えているが、身体が勝手に動いていた。
【蟲の呼吸 蜂牙の舞 真靡き】
「鋭い突きだね。手で止められなかった」
相手の左目を貫いたが、鬼は彼女へ笑う。
「うーん。速いねぇ。でも、突き技じゃあ、鬼は殺せない。頸を斬らなきゃね」
【血鬼術 蓮葉氷】
打ち払うように振られた扇から、撒き散らすように冷気がしのぶへと襲いかかるーーー
【しゃくねつほのお】
水まんじゅうのようなそれが吐き出した炎が、彼の術をかき消してしまっていた。
「え……?」
しのぶの頭の上でえへんと胸を張るイチに、上弦の弐は目を丸くした。
気が抜けていた瞬間、しのぶの刃から流れ込んだ毒が相手に膝を付けさせる。
「突きでは殺せませんが、毒ならどうです?」
刀を収めるしのぶの目の前で、苦しみ始めるが、相手は流石に上弦というべきか。
「毒、分解できちゃったよ。ごめんね?」
血を吐きながらも、毒を分解して笑う相手に、しのぶも情報を集めていく。
「……予想通りということですか。少し悔しいです」
初めての毒だったにも関わらず、耐性がつくまでの速さが異常なのだ。
「その刀、鞘にしまう時の音が特殊だね。そこで毒の調合を変えているのかな?後何回、毒を調合できるかな?おや?」
攻撃に備えて身構えていたしのぶの方は、背後に現れた気配に肩から力が抜けるのを感じる。
「……イチ、良くやった」
見えない氷の粒からしのぶを守り切ったイチを背後からそっと撫でると、また後でと言うように、ふるふると震えて、しのぶの羽織の中に入っていく。
「ちょっとー、邪魔しないでくれない?今、その子を【救済】するところだったんだからさー」
ちらりと視線を送って【鑑定】を開始していく。
「……あれが、貴女達のお姉さんの仇か。ああ、本当に反吐が出そうな、糞野郎だな」
少し読んだだけで、胸糞の悪くなる結果が返ってくる。
「初対面で、ずいぶん酷いことを言うんだね。だから、男は嫌いだよ」
男に嫌われても別段何とも思わない魔法遣いは、しれっと相手を無視してしのぶに声を掛ける。
「もう落ち着いた?」
「はい。ありがとうございます。イチのお陰ですね」
しのぶは羽織の上から、そっとイチのいる場所を押さえる。
大丈夫だよーとフルフルと揺れるイチに、しのぶはほっと息を吐いた。
「うん。俺も間に合って良かった。屋敷に帰ったら、イチを構い倒してあげてください」
諒はしのぶを再鑑定して、どこも怪我が残っていないことを確認する。
「あのさー。俺を無視するとか、どういう了見な……っ!?」
【氷壁】
「氷……?」
目の前に現れた氷の壁に、上弦の弐は目を丸くした。
「こっちの話が終わったら、お前の相手をしてやる。だから、ちょっとそこで大人しく、残りの寿命を数えておけ」
氷よりも冷たいセリフを告げた後、諒はしのぶに向き直る。
「頭に血が昇って、突貫したでしょう?」
「う……だって、姉さんの仇をやっと見つけたんだもの……」
バツが悪そうにしのぶは、諒から視線を反らせた。
「本当、間に合ってよかった」
「うん。……来てくれてありがとう」
氷越しとはいえ、繰り広げられる光景に、上弦の弐はイライラして氷の壁に扇を叩きつける。
「よしよし、あっちの頭に血が昇り始めてるな。今、サンに頼んで、カナヲをこっちに招いている。到着まではアレを弄ぶとしましょう」
「倒さないんですか?」
「まあ、同じ空気を吸いたくないって言うか、同じ空間にいるだけで頭が痛くなる相手ではありますが、カナヲにも仇取らせてあげたいじゃないですか」
ね?っと頭を撫でられると、しかたないですねと思ってしまう。
「それに、伊之助も呼びたいところではあるんですよ」
「え?」
「むかつくので端的に話すと、伊之助の母親もアレに関係して死んでる」
「それはそれは、許せない理由が一つ積みあがりましたね。……元々土下座されても許すつもりもありませんが」
「では、まずはカナヲが来るまで、時間を稼ぎましょうか」
二人は戦闘態勢を整え、氷の壁を消した向こうで嗤う上弦の弐と対峙した。
「やはり情報は共有されてました。毒のことも」
「確証が取れてよかった。鬼は所詮、無惨の端末ってことなんだろうな」
二人で背中合わせに防戦しながら、情報の共有を行う。
「お、炭治郎が上弦の参とぶつかったよ」
「大丈夫そうですか?」
「義勇も雷様たちもいる。心配は要らないかな」
呑気に話しながら、氷の血鬼術を潰していく二人に、イライラが募るのは上弦の弐の方である。
「……全ての技を見て、殺そうと思ってるだろ?出来るのか?」
魔法遣いは、そんな相手をさらに煽る。
「私の毒も結局一種類しか使えてません。……諒さんのせいですね」
「いいんだよ。こんなやつに、切り札なんて切らなくて。最高じゃないか。自分の方が強いと思い込んである間抜けの、足元から掬い上げて、地べたに這いつくばらせるとか」
「……人間風情がッ!」
「ここか!強い鬼がいるのは!」
術を放とうとした上弦の弐の頭上へ、天井を突き破って現れたのは伊之助だった。
「師範!」
ほぼ同時に背後の扉からはカナヲがサンと一緒に駆け込んできた。
「さて、反転攻勢と参りますかな」
「ええ。そろそろアレと同じ空気を吸うのは嫌です」
カナヲと伊之助が打ち合い始めたところへ、しのぶとも参戦する。
「四対一なんて、卑怯じゃないかな!?」
「卑怯上等!勝てば官軍だっ!」
だいたい、力の強いモノに対して、人数を揃え、武器を揃え、対抗するのは人間の本分だろう。
「ああっ!もう、鬱陶しいなぁ!なんだよ、ただの人間のくせに!」
「惚れた女が、死んでいくのを、見送るより、万倍マシだ!」
「へぇ!さっきからかばっている後ろの子?それとも、さっき飛び込んできた子の方かなぁ?」
「ははっ!この感情も貴様は一生理解できんだろうな!表面を取り繕って、喜怒哀楽があるような振りをしている、サイコパス野郎にはっ!」
青年の双剣と扇で打ち合う上弦の弐は苛立ったように距離を取り、術を繰り出す。
【散り蓮華】
【メラミ】
だが、そんな術も青年の一言で潰されてしまう。
ワンワードで発動できる、魔法の使い勝手は最高だ。
「ええっ!?何それ!」
「いつから、【術】を使えるのが、鬼だけだと錯覚していた?」
「でも、多発は出来ないみたいだね。さっきから使わないじゃない?」
【結晶ノ御子】
そう笑う相手は、諒の相手をしながら、後ろから攻撃を仕掛けてくる三人へ小さな氷の分身を向かわせる。
「使わなくても、人間はこういうこともできるんだぜ?」
近接戦闘をする彼だからこそできる芸当と言えるだろう。
白煙を上げるポットを奴の頭の上にひっくり返す。
「は?お湯なんて、俺に効くと…?凍る!?」
「ははは!どうよ、マイナス百九十六度。液体窒素の味は!」
舐めプをする上弦の弐が隙を作った瞬間に、諒は魔法を発動させる。
【ファイジャ】
彼の魔法でカナヲ、伊之助、しのぶに向っていた御子は、溶け落ちる。
その様子を見ても上弦の弐は笑いを止めない。
「凄いねぇ!そんなにボロボロになりながら、無駄なことを諦めない!実に人間らしい!」
傷が治癒していく鬼の自分と違い、徐々にボロボロになっていく目の前の矮小なる存在に、哀れむ表情を浮かべている。
「俺が何も考えず、お前なんかと打ち合ってたと思ってるのか?馬鹿か?阿呆か?頭ってのは使わないと鈍っていくんだぞ?お前は何年、使ってないんだ?」
だが、魔法遣いはそれすらも嗤い飛ばす。
【投影開始】
「確かに刀一本分だと、大した量の毒は入れられない。だが、毒の純度を高めて、本数を増やしたら、どうかなぁ」
「な……!?」
そう、ニヤリと真っ黒な笑顔を見せて、右手を掲げる青年の背後には、夥しい数の日輪刀が浮かんでいた。
その全てが、蟲柱・胡蝶しのぶの日輪刀を模したもの。つまり、全てが対鬼特製猛毒入りである。
散々煽り立て、時間を稼いだ甲斐があるというものだ。
「さあ、解毒の準備は十分か!?サイコ野郎!!」
流石に拙いと感じたのか、上弦の弐は逃げようとするが、それを許す魔法遣いではない。
【全投影連続層写(ソードバレルフルオープン)】
「ははは、どこに行くんだ。貴様の行く先は地獄以外ないんだがな!」
怒涛の如く降り注ぐ刃の合間を縫って、魔法遣いは双刀を振るう。
上弦の弐は両手に持った扇で打ち合いながら、撃ち込まれる毒を避けることは出来ない。
「わかってるよ、どうせ君は、前座に過ぎない。あの子が、本命なんだろう!?」
それでも決定的な一打を撃ち込まない、男の目論見などわかっているのだと笑って見せる。
「その通りだが、もうお前には何もできない。……溶け始めているぞ?」
しのぶが身体にため込んでいたものより、より鬼に効く成分だけを抽出した、高純度・高濃度の毒を叩き込んだ。撃ち込んだその合計は既に三百を超える。
その効果が既に現れ始めていた。
「え?」
ドロリと溶け落ちる左目に、漸く自分の状態を上弦の弐は把握して足を止める。
止めて、しまった――――
諒の背後からしのぶが、左右からカナヲと伊之助が、飛び込んでくる。
「さっさと地獄に堕ちろ、糞野郎」
それが、上弦の弐が聞いた最期の言葉になった。