「志摩子さん?」
「さん」
バスを待っている時に掛けられた声は、よく知っているのもので、志摩子は彼の側に小走りに駆け寄った。
何処かに出掛けていたのだろう青年は、そんな彼女に優しく笑いかける。
「今、お帰りですか?」
いつもより遅い時間にここにいたからだろう。彼は小さく首を傾げていた。
「はい。今日は打ち合わせが長引いてしまって。さんはお買い物ですか?」
「ええ。……ちょうど良かった。お父さんに用事があるので、ご一緒しても?」
軽く鞄を叩いて笑う彼に、志摩子は頷いた。彼女の父親が、時々彼に頼みごとをしているのを知っていたから。
帰り道がこんなに楽しいのも久しぶりだった。
は話を引き出すのがとても上手い。
彼の言葉を聞いていると、今日学校であった何でもないことが、とても大切な出来事のように思えてくる。
きっとこの辺りが、彼女の姉を惹きつけてやまないのだろう。
甘えるという事を滅多にしないあの人が、この黒髪の青年の前では、まるで猫のようなのだから。
「だいぶ、寒くなってきましたね」
「はい。今日も薔薇の館で……え?」
気付けば彼のしていたマフラーが、ふわりと志摩子に掛けられた。
「手も冷たくなってしまいましたね」
鞄を持っていない方の手は彼の手で包み込まれる。
たったそれだけのこと、なのに、志摩子は指先の感覚に総てを持って行かれてしまう気がした。
「あ、あの……」
「ん?ああ、すみません。手袋は家に忘れてしまって」
困ったように笑う青年に、志摩子はそれ以上何も言えず。
結局、彼女は家に帰り着くまで、彼の手を解くことができなかった―――
たったそれだけのこと、なのに(マリみて:志摩子)
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Posted: 2021.02.04 短編にも満たない諸々。. / PageTOP