少しだけ速まる鼓動(インフィニット・ストラトス:千冬)

「先生は頑張ってます、偉い」
そういって撫でてくれた彼の手が嬉しくなかったと言えば嘘になる。
「仕方ないですね」
困ったように笑う、彼の声が嫌いではない。
「大丈夫ですか?」
そう心配してくれる彼の目が、優しいのも知っている。

それは朝の珈琲タイムを過ごすようになって一週間が経った頃だった。
「今日こそ部屋に入れてもらいましょうか」
寮監室の前で千冬は、諒に有無を言わせぬ笑顔で詰め寄られた。
「女性の部屋に押し入ろうなど、ろくでもない事を言い出すのだな」
視線をそらせつつ、かろうじて言い返したのだが、彼の笑顔を崩すことは出来なかった。
「別にちゃんと片付けられているなら、俺が部屋に入っても問題ないですよね?」
頑なに入室を断っていたので、部屋を片付けられない人間のレッテルを張られたらしい。大変遺憾であるが、事実であるのが問題だ。
そして、ついに根負けした千冬の部屋の惨状に、彼は言葉をなくしたようだった。
「……あー、台所を片付けますので、貴女は部屋の中で洗濯するものと片付けるものを仕分けてください。ゴミは後で捨てに行きますので、袋の中にまとめてください。洗い物が済んだら、俺も手伝います」
寮監室は寮室と違い、一人暮らし用の豪華マンションという設えになっていた。
キッチンは正直羨ましい。お湯を沸かした形跡くらいしか見当たらないのが、非常に残念である。
「わかった。すまない」
「次はここまでなるまでに押し入ります。先生業も大変ですしね」
だから気にしなくていいんですよと、彼の手が優しく頭に乗せられる。
2日前、コーヒーを飲みながら、仕事の愚痴を言っていたら、頑張りましたねと撫でられて以来、彼は良く頭を撫でてくる。どうやら、施設で小さな子供たちの相手をすることが多かった故の癖らしい。
まだ、一週間なのか。もう、一週間なのか。
千冬は、目の前の青年に心を許し始めている自分に気付いていた。
「よし、決めました。晩酌用のツマミを毎日用意しますので部屋に入れてください。その代わりに、部屋の掃除と片付けをします。洗濯だけは自分でしてください。いいですね?」
こうやって、彼はするりと彼女の居場所に入り込むのだ。それがとても上手くて、千冬は少し混乱してしまう。
「それだと私にしか得がなくないか?」
「世の中、損得が全てじゃないでしょう?私がしたいからいいんですよ」
そう言って、また人の頭を撫でるから、つい甘えてしまう。
誰かに甘えたことなどない自分が、である。
ただ、彼のそばが居心地が良すぎるのが問題だと、千冬はため息を吐いた。

一年生最初の授業が終わった日の夜も、隣室の青年が旨そうなおつまみを片手にやってきた。今日のメニューは魚の燻製と、野菜スティック味噌ディップ添えである。
愚弟と『一応』親友の妹が起こした騒動を片付けた千冬は、いそいそと冷蔵庫から本日の晩酌用ビールを取り出して一口呷る。
「で、授業が始まったがどうだ?」
目の前でビール片手にニヤニヤしている女性が、自分の担任であるという事実から、諒としてはそっと目をそらしたくなる。
勤務時間は終了しているので飲酒は問題ないのだが、妙齢の女性がラフな格好を青少年の前でしているというのは、危機感とかいろいろ突っ込みたかった。だが、何かしようものなら、物理的、精神的の両方で色んなものが折られそうなので、理性を総動員して、戦乙女に対抗しているのが現状だ。
「ぼちぼちですかね。山田先生にも簪にもフォローしてもらっていますし、今のところ特に問題はありません。……むしろ、問題は先生の弟でしょう。あれ、今のうちに何とかしておかないとマズいですよ?」
諒は持参した麦茶を飲んで、小さくため息をついた。
「……む」
弟の所業を思い出したのか、千冬は急にビールが不味くなったような表情になる。
「貴女と篠ノ之博士の一番側にいたのに、インフィニット・ストラトス関連の知識が致命的に欠落しているのは、どういう事です?一般常識レベルすらインプットされてないって、俺はツッコミ用のハリセンを準備しておいた方がいいですかね?」
「……申し訳ない」
「まあ、実の弟に嬉々として、『兵器』の取り扱いを教え込むようなお姉さんじゃないだけ、マシと考えるべきですかね。今までの常識から考えれば、技術職じゃない限り、男がISと関係を持つのはあり得なかった訳ですし。まさか、乗れると思ってはいなかったんでしょう?」
「うむ。まあ、開発者のこともあるので、万が一とは思っていたが、あそこまで何も考えずに触れるとは、私にも予想外だった訳で……本当に飲まんとやってられん」
「どうぞ」
額に手を当てて小さく唸る千冬に、諒はそっと本日二本目のビールを差し出す。
「すまんな。しかし、美味いな。この魚の燻製、どこで買ったんだ?」
ビールを受け取りつつ、彼があらかたほぐし終わった魚の燻製を摘まむ。
程よい塩気と身の締まり具合にビールが進むというものだ。
「自家製です」
「は?」
「ですから、自家製です。時々山を持っている友人に頼んで、燻製させてもらっていたんです。残り少なくなったら、どうしましょうかね?学園の防波堤当たりで、やっても大丈夫ですかね?」
「許可が出るか試してみるから、ちょっと待て」
最初は馬鹿者と止めようと思ったのだが、実に美味いので、千冬は思わず妥協案を出していた。
「承知しました。許可がもらえたら、日持ちしないチーズとか品切れしているベーコンやハムなんかもできますね」
諒はしれっと燃料を投下しておく。これで許可が下りればWin-Winというものだ。
「任せておけ」
そう言って指についた脂を舐める仕草が、実にエロくさいとは思っても口には出さない。
「何か、不埒なことを考えているだろう」
「いえ、実にイケメ……危ないじゃないですか」
片手にビールを、もう片手で魚を摘まんでいるので大丈夫だと思っていたのに、魚を摘まんでいた手で抜き手をかましてくる千冬に、諒は呆れた表情を向ける。
攻撃してきた手は、動かないようにガッシリと掴んでおく。
「ほう。これを躱すか」
「躱さないと間違いなく昏倒させられるレベルの攻撃でしたよね?出席簿アタックが可愛く見えます」
軽口を交わしつつ、掴み掴まれた手の方は地味に攻防を繰り返している。
「まったく、暴力は最後の手段ですよ?織斑先生なら、生徒程度なら威圧感だけで十分制圧できます」
やれやれと肩を落として、諒は目の前にあった魚の燻製をパクリと頂くことにした。
「なっ!」
自分の手にあったものを直接食べられた千冬は、思わず声を上げる。
「ご馳走様でした」
汚れていた千冬の手を布巾で拭いて、諒はその手を解放した。
最後の一口を食べられたからか、ジト目で睨んでくる千冬の視線をスルーして、諒は空になった皿を手に立ち上がる。
「では、今日はこの辺で失礼しますね。流石に、今日は疲れました。今ならストレスで死んだパンダの気持ちが痛いほど理解できそうです」
おつまみの乗っていた皿とコップを洗った青年は、タオルで手を拭きながら、千冬に声をかけた。
「ああ、お疲れ様。また明日」
「はい。先生もほどほどにして休んでくださいね。おやすみなさい、また明日」
青年が頭を下げて、部屋を後にした後も、千冬は残っていたビールをチビチビと飲んでいた。
のだが、先ほど魚の燻製を摘まんでいた指先をじっと見つめる。

少しだけ速まる鼓動を無視して、千冬はビールを飲みほした――

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後書&コメント

  1. いちゃいちゃー!
    以下は私の勝手な妄想です。
    主人公(30Over+18)→24歳なのに、頑張って偉いなー。ほめてあげよう。
    千冬(24)→6歳年下にしてやられて悔しい。いつかリベンジ!

    コメント by くろすけ。 — 2019/01/24 @ 13:11

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Posted: 2019.01.24 短編にも満たない諸々。. / PageTOP