何故ここにいるんだろう。
『リリアン女学園』と書かれた門の前で、は小さくため息を吐いた。
ここへ来るまでの道のりでは、その疑問は「何であそこへ向かっているんだろう」だったけれど。
店から徒歩10分以内の場所にある、このカトリック系の学園に来る羽目になった理由が、寺の住職っていうのは少し笑えるかも。しかし、出掛けた先で、即Uターンを命じられるってどうなんだろう。
そんなくだらない事を考えた彼は、さっさと用事を済ませようともう一度小さくため息を吐いて歩き出した。
門のところにいた守衛さんは、連絡を受けていたのか身分証を見せるとすんなりと通してくれた。
あそこが高等部ですと教えられた方向へ歩きながら、青年は周囲を見回してみる。
幼稚舎から大学部まで揃っていると言われれば、その敷地も広大だろうなとは思っていたが。
「……さすが」
彼は思わず声に出していた。
理由は、結構立派なマリア像を見つけたから。周囲もかなり整えられていて、本格的だ。
少し眺めていたかったが、時間も無い。帰りにでもゆっくり眺めることにして、は本来の目的地へ先を急いだ。
高等部に近付くと、やたらと視線を感じるようになった。
やはり男は珍しいのだろうか。教師とか、父兄とか、いないのだろうか。
彼はあまり気にしないことにして、目的の場所を近くにいた人に尋ねることにした。
来客用のスリッパに履き替えて、手近にいた生徒へ声を掛けた。
勿論、失礼のないように被っていた帽子は脱いで。
「失礼ですが、一年桃組の教室はどちらでしょうか」
その時上がった周囲からの声も、彼は気にしない事に決めた。
まさか、お弁当を忘れてくるなんて。
志摩子は小さくため息を吐いた。
ミルクホールで食べようかと考えていた彼女は、教室の入り口から名前を呼ばれて振り返った。
「さん…?」
父の知り合いに、という青年がいる。
休日に時折ふらりとやってきては、父と将棋を打っているその彼が、何故ここにいるのだろう。
「志摩子さん」
彼の名前を呼んだ後、目を丸くして固まってしまった彼女に軽く手招きして廊下まで来てもらう。
何故か教室に入るのは、躊躇われた。理由はわからないが、入らない方がいいような気がする。
廊下でも見世物になっているのは、変わらない訳だし。
「父に何か?」
小さく駆け寄ってきた彼女の問いに小さく首を振り、紙袋を差し出す。
「これ。間に合いましたか?」
中に入っているのは、彼女のお弁当。
暇なら持って行ってくれと言ったのは彼女の父親で、はそれを苦笑して受け入れた。
「どうして、貴方が?父は?」
「所用だそうです。……やっぱり、ご迷惑でしたね」
彼は周囲を見回して、小さくため息を吐いた。
遠巻きに生徒達が彼を見ているのがわかる。
「そんなに珍しいですかね?」
小さく呟かれた彼の言葉に、志摩子は心の中で苦笑した。
彼は自分の容姿がいいとは思っていないのだ。彼の自身への評価は『極普通』というもので、初めてその事を聞いた時、志摩子は驚いてしまったことを今でも覚えている。
実際は、目の前の青年は街を歩けば大半の人が振り返るだろうと思うほど、格好が良い。
背は高く、かといって細すぎず。身体にフィットした黒のジーンズとタートルネックの長袖シャツ。
その上から、重ね着された白のTシャツ。少し緩めなシャツの上からでも、そのしなやかで鍛えられた身体が想像できる。
彼女が山百合会の一員であることを差し引いても、彼が注目を浴びるのはしかたないことだと思う。
「……次は絶対にお父さんに来てもらいますから」
申し訳なさそうに言って紙袋を置いて立ち去ろうとする彼の袖を、彼女は思わず掴んでいた。
「志摩子さん?」
「……ありがとうございました。迷惑なんて事、ありません」
はちょっと驚いた顔をした後、優しい微笑を浮かべて志摩子の頭に軽く手を置いた。
彼の優しい微笑みと頭に置かれた温かい掌に、志摩子は自分の顔が赤くなるのを自覚した。
一方、は何故彼が微笑んだ瞬間、周囲から声が上がったのか全くわからなくて、これが不味かったかと志摩子の頭に置いた手を慌てて離してしまった。
「どういたしまして。では、私はこれで」
彼が身を返そうとした時、横合いから何かが飛びついてきた。
「さんっ!」
咄嗟のことでも驚いたようだが、それをよろめく事も無く受け止める。
「……聖さん?」
同時に周囲からは「白薔薇様っ」とか「聖様っ」とか叫び声が上がり、は不思議そうに小さく首を傾げた。
「お姉さまっ!」
「お姉さ……ま?……あの放蕩兄貴の他に……いや、それ以前に……聖さんが志摩子さんの姉なはずない……ですよね?」
志摩子の言葉に、彼は珍しく困惑した表情をしていた。
「白薔薇様?こんなところで何をしてるのかしら」
「紅薔薇様、黄薔薇様」
何故、彼女達は薔薇の名前を呼び合っているのだろう。聞きなれない新しい言葉に、青年は頭が痛くなってきた。
「こちらでは騒がしいでしょう?場所を移しませんか?」
だから、ヘアバンドをした女性の言葉に大人しく頷く。
例え彼女の瞳がやたらと輝いてみえても、今ここにいるよりは良いと彼は判断したのだ。
「では、こちらへ」
「蓉子っ、痛いって」
黒髪を肩口で綺麗に揃えたもう一人の女性は、今まで抱きついていた聖の耳を軽くひっぱって歩き出した。彼女の後について青年も歩き出す。志摩子も慌てて後を追った。
「助けておいていただいて、こんな事を言うのは心苦しいのですが」
人が少なくなったところでは前を歩く彼女達に声を掛けた。
「はい?」
「後で守衛さんのところまで一緒に来て、帰るのが遅くなった理由を説明してもらってもよろしいですか」
「あ、私が一緒に行くよ」
さっきまで耳を引っ張られていた聖は、今はの左手を手に入れて嬉しそうにしている。
「そうね。ここまでの騒ぎになったのは、間違いなくあんな場所で抱きついた白薔薇様のせいだし」
ヘアバンドの彼女が聖を見て楽しそうに笑った。
『薔薇の館』と呼ばれる生徒会室に連れてこられた青年は、それが離れであることに驚いていた。
吹き抜けに設置された階段を抜けて、二階へ案内された彼は更に驚く事になる。
「ああ、先に来ていたのね。令、由乃ちゃん」
「今日はお客様をお連れしたのよ。祥子、祐巳ちゃん」
先に入った二人に続いて入ろうとした聖は、足を止めた青年を振り返った。
「どうかした?」
「……いえ。もう何があっても驚くものか、と思っただけです」
青年は軽く頭を振って、中へ足を踏み入れる。
「お邪魔します」
「さんっ!?」
異口同音に発せられた自分の名前に、彼は微苦笑を口元に刻んで軽く右手を上げた。
「お久しぶりです、令さん、祥子さん」
簡単な自己紹介をした彼女達がお弁当を食べている間、珈琲を片手には頭から煙が出そうになる事、数回。
ロザリオの話や、姉妹の話、生徒会長に相当する薔薇様の話……などなど。
聞かされた話に女子高は不可思議空間だ。は心の底からそう信じた。
「特殊な制度があるとは聞いていましたが……」
「特殊とは酷いなぁ」
小さくため息を吐くを見て、聖は小さく肩を竦める。
「……最も不思議なのが、貴女が志摩子さんの姉で、生徒会長という事実なんですが」
「うわっ、傷つくなぁ。これでも結構人気あるんだよ?」
聖が彼を軽く睨むが、は優しく微笑んでいた。
「それは先ほどの騒ぎを見てわかりましたよ」
まるで頑張りましたねと誉めるように、頭を撫でてくれる彼の手が嬉しい。
「それで志摩子とのご関係は?」
「住職とは将棋友達です」
端的に答えられて、室内には微妙な沈黙が落ちた。
「……住職?」
の隣に座っている志摩子へ視線が集まる。彼女の顔が強張っているのに気付いたが、眉間に皺を寄せた。
「もしかして、秘密にしていたんですか?」
「だって……」
今にも泣きそうな志摩子に、彼は目を閉じて小さくため息を吐いた。
「志摩子さん」
まっすぐに彼女と向き合ったに、優しく名前を呼ばれる。
それだけで涙が零れ落ちてしまいそうだ。
「秘密にしていた理由は、貴女の実家がお寺だから、ここに来る資格……とか?」
俯いたまま小さく頷くのが、今の彼女には精一杯。
「信仰は個人の自由でしょう?生まれる場所は選べませんしね」
そんな彼女の頬に手を添えて、青年はまっすぐに彼女の瞳を覗き込む。
泣き出しそうなその目に、彼は苦笑する。
女の子を泣かせたなんて、あの保護者たちに知られたら考えるのも恐ろしい。
「貴女はお父さんが嫌いですか?」
「そんなことっ!」
「よかった。ならば、貴女のする事は一つ。何に恥じることもなく、マリア様を信仰すればいい」
の笑顔に、志摩子は見とれていた。
「実家がお寺だから、何だと言うんです。貴女が信じると決めたなら、相手が何であろうと胸を張っていればいい。それに……」
「……それに?」
「……神様を信じていない、私でもよければですが」
志摩子に促された彼はそう前置きして、口ごもった残りの言葉も口にした。
「他の誰が何と言おうと、私は貴女の味方です」
我慢の限界だった。
「―――っ」
志摩子はぎゅっとのシャツを掴んで顔を伏せた。
「……えっと」
「あーあ、泣かせた」
頭の中身がフリーズしたを再起動したのは、聖の一言。
「やっぱり、私のせいですか……?」
満場一致で頷かれては、慌てる以外にする事、というより出来る事はただ一つ。
抱きしめて、好きなだけ泣かせる以外に、何が出来るというのだ。
「どうぞ」
しばらく泣いて大分落ち着いていたが、未だ涙でくしゃくしゃの志摩子に、はタオル地のハンカチを差し出した。
「……ありがとう、ございます」
「お役に立てたなら何より」
はもう一度、優しく彼女の頭を撫でた。
「……だいたいわかったわ」
そんな二人を見て、何だか疲れたように言ったのは蓉子で、その周りで全員が頷いている。
「天然なのね」
「そうなんです、お姉さま」
江利子の言葉に深々と頷く令に、祥子もため息を吐きながら同意した。
「これでお姉さま方と同い年というんですから、困った方です」
「……祥子、今、何て言ったの?」
「『お姉さま方と同い年』と」
その事実を知っていた祥子以外の視線が、彼に集中する。
「絶対年上だと思ってた……」
聖の呟きと彼女達からの視線に、ちょっとショックだといわんばかりには大きくため息を吐いた。
「飛び級で大学まで卒業してしまったせいでしょうか。年上に見られる事が多いんですが」
「飛び級っ!?」
彼の口から出てくる単語は、彼女達を驚かせてばかりだ。
「外国の…ですよね?」
頷いた彼の口から出てきた大学名は、誰もが知る超有名校で、改めて目の前の青年を全員が凝視することになったのだが。
その時、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
「ああ、もうこんな時間ですか」
立ち上がり、カップを片付けようとする彼の背中を、全員が見つめていた。
そして、目線だけで打ち合わせて、頷きあう。
「さん。あの、放課後にお時間ありませんか?」
そして、蓉子が代表して彼に声を掛けた。
「え?」
「是非、もっとお話してみたいのですけれど」
江利子が続ける。
「さんのお店、今日は定休日でしょ?後で、また来てよ」
聖の言葉に、は少し考えて皆を見回す。
「皆さんがよろしければ」
その言葉に、全員が力強く頷いた。