放課後、待ち合わせの時間より5分早く校門に向かえば、既に黒髪の青年が立っていた。
遠くからでもわかる。そこに人だかりが出来て、生徒たちの視線が集中しているから。
人だかりから頭一つ飛び出している本人は、野球帽を目深に被って少し居心地悪そうだけれど。
「失礼。通していただいても?」
「ロ、紅薔薇様っ。ど、どうぞ」
真っ直ぐに近付けば、彼も気付いて蓉子へと視線を向ける。
彼女の姿を確認すると、ゆっくりと歩み寄りながらは帽子を脱いだ。
その途端、生徒たちから声が上がり、青年は困惑した表情を浮かべる。
「ごきげんよう、さん」
「本日はお招きありがとうございます」
「いえ。ご無理を言って申し訳ありません。どうぞ」
挨拶を済ませると、二人は並んで歩き出した。
しばらく歩いて、人が少なくなったところで、は大きく深呼吸をした。
「何だが珍獣か何かになった気分です」
「さんが格好いいので、皆気になっているんですよ」
そんな彼の様子に、蓉子は小さく笑って言った。
「笑っていると説得力がありませんよ?蓉子さん」
頭一つ分高い場所から苦笑いの気配。
彼の口から自然に自分の名前が紡がれた事に、蓉子は顔を上げていた。
「名前で呼んでいただけて嬉しいです」
「そうですか?」
並んで歩いている途中、何人かの生徒とすれ違い、その度に挨拶を交わす。
「ごきげんよう、紅薔薇様」
「ごきげんよう」
一人ひとり丁寧に頭を下げる蓉子に、は感心していた。
「紅薔薇様……、随分と重そうな名前ですよね。まだ普通の『生徒会長』という名称の方が気楽そうだ」
「ふふ、そうかもしれませんね」
「あの子達と貴女の差といえば、貴女が常に最大限の努力をしているという点、くらい……」
そこまで言って、彼は何かを考えてしまった。
「さん?」
「……もうひとつありました。あの祥子さんに命令できるって事。これはきっと他の誰にも真似できない」
「今度はお姉さまを泣かせたのかしら?」
咎める様な祥子の視線の先では、泣きたいのはこっちだと言わんばかりの青年がため息を吐いている。
「違うのよ、祥子。これは笑いすぎ。本当に面白いわね、さんって」
自分のことを『極普通、面白みのない人間』と信じて疑っていないは、まだ笑いの残滓が残っている蓉子に困惑していた。
「さん、それは?」
いつの間にか彼の背後から抱きついていた聖が彼の持っていた紙袋を覗き込む。
「ああ、女性の集まるお茶会に手ぶらでお邪魔するなんて出来ませんから、手土産を」
テーブルの上に置かれた紙箱の中から現れたものに、歓声が上がる。
「ベリータルトですか」
「うわぁ、美味しそう」
口々に嬉しそうな言葉を発する彼女達に、は小さく笑った。
「さん?」
志摩子は、彼を見上げて小さく首を傾げる。
「やっぱり、女の子は甘いものが好きだなって思って」
まるで小さな子にするように、頭を撫でてくれる彼の手が志摩子は嫌いではなかった。
「ありがとうございます。早速いただいても?」
江利子は笑って彼を見上げた。
「勿論」
「令、お願い」
「はい、お姉さま。ありがとうございます、さん」
どうやって九個に切ろうか考えている令に、青年は声を掛けた。
「私の分はいらないので、八等分でお願いします」
「いいんですか?」
「甘いものは少し苦手で。ああ、でも……」
は柔らかい微笑を浮かべて、見上げてきた令を見つめ返す。
「貴女の作ったクッキーは私好みです」
「え?」
「二ヶ月くらい前、道場の方へお邪魔した時に、このくらいの四角いクッキーをお茶請けに頂きました」
目を丸くして見上げてくる令に、は指で四角を作ってみせる。
「ああ、あれは美味しかったわ。紅茶にぴったりで」
江利子はすぐに思い出した。確か、令が焼いて持ってきて皆で食べたのだ。
固まってしまった令から包丁を受け取り、タルトを切り分けながらは優しく笑う。
「あれはとても美味しかった。私の店で出したいくらいです」
「本当ですか?」
手放しで誉められた令は、嬉しそうに彼を見上げた。
「お店?」
「さんは、ここから歩いていける所で喫茶店のマスターをされているんです」
小さく首を傾げる江利子に答える令を見ながら、は手早くタルトをお皿に分けていく。
「なるほど」
この手際の良さは、プロだったからか。蓉子は思わず頷いていた。
「美味しいー」
そう言ってケーキを口に運ぶ彼女達をは優しく微笑んで見つめていた。
しばらくして、彼は少し考えるように小さく首を傾げて、ポケットから小さく畳んだメモを取り出す。
「よろしければ、どうぞ」
「え?」
目の前の紙が何を意味しているのか、差し出された令はわからず目を丸くする。
「このタルトが気になるのでは?」
「ああ、ありがとうござ……え?」
紙にはきっと買ってきた店の名前と場所が書かれているのだと思っていた。
けれど、そこに書かれていたのは、材料とその分量。
「これ……」
「?このタルトのレシピですけれど……。私は家に帰ればノートがありますし」
「あの、もしかして……これ、さんの手作り…なんですか?」
令が頑張って聞いた言葉に、はあっさりと笑顔で答えてくれた。
「ええ、そうですよ。クッキーのお礼になればいいのですが」
周囲では全員が絶句している。
蓉子が慌てて紙箱を確認すれば、何処にも店名は入っていなかった。
「……さんの手作り……」
「お店で出すと、結構好評なんですけど」
やっぱり男の手作りは不評かなと考えたは、微苦笑を口元に浮かべる。
「いえ。あ、ありがとうございます」
でも、大事そうにメモを握り締める令に、彼はどういたしましてともう一度優しく微笑んだ。
「聖さん、珈琲のお代わりは?」
ケーキを食べ終わった聖がカップを覗き込んだのを見て、は自分のカップを持って立ち上がった。
「あ、うん。いい?」
「聖。お客様に何を…」
遠慮なくカップを差し出す聖に蓉子が眦を上げたけれど、彼は笑って聖からカップを受け取る。
「いいんですよ、蓉子さん。美味しい淹れ方があるんです」
「インスタントなのに?」
「インスタントだからこそ」
江利子の言葉に答えた彼はちょっと誇らしげで、全員が見惚れてしまった事を本人だけが知らない。
「あ、ほんとだ。美味しい」
ものの数分で戻ってきたカップからは、いつもより香りが立っていて、口をつけた聖は素直に驚いた。
「これ、本当に水とインスタントコーヒーだけ?」
「そうですよ?そこにあったやつです」
流しに置かれたポットとインスタントコーヒーの瓶を指差す。
「出来れば瓶は冷蔵庫に入れるか、密閉容器に移した方がいいですね。湿気に弱いし、ただでさえ少ない香りが飛んでしまう」
も一口飲んで、満足そうに頷いた。
「祐巳さんは、信じられないという顔ですね」
祥子の隣に座るツインテールの女の子に笑いかける。
彼女は信じられないものを見るように、の持つカップを見つめていた。
「え?」
「祥子さんの言う通り、顔に出てましたよ?珈琲はお嫌いですか?」
「嫌いというか……苦いのは……。それにインスタントなのに、どうやったら美味しくなるのかなって」
「なるほど。……時に、祐巳さんは紅茶の美味しい淹れ方をご存知ですか?」
「一応は……」
突然の話題変更に祐巳は小さく首を傾げた。
「それと同じ事ですよ。最初にカップを暖めておくとか、お湯の温度とか、そういう小さな事なんです」
「ああ、なるほど」
は話をちゃんと聞いて頷く祐巳を見て、隣に座っている祥子を見る。
何故、貴女がそんなに嬉しそうなんだ。
そう思った彼は、その理由に更に隣の令と由乃を見て思い出した。
「なるほど。由乃さんの事を話す令さんと同じ顔だ」
「さん?」
不思議そうに見つめてくる祥子と令には応えず、はひとつ手を叩いて祐巳に声を掛けた。
「ああ、そうだ。祐巳さんに会ったら、是非お教えしておこうと思ったことがあるんですよ」
「何ですか?」
不安半分、好奇心半分といった顔で、祐巳は前に座るに聞き返す。
「祥子さん好みの紅茶の淹れ方……」
「教えてくださいっ!」
の言葉を遮るように元気に立ち上がった祐巳に、は一瞬目を丸くした後、肩を震わせて笑い出した。
「本当に可愛いですね。祥子さんがあれだけ惚気るのもわかります」
「へ?」
「さんっ」
どこか抜けた声を出した祐巳と、珍しく慌てた顔でを呼んだ祥子。
「お姫様がこれ以上怒らないうちに、紅茶の淹れ方講座に逃げ出すとしましょう」
椅子から立ち上がって、祐巳を軽く手招きする。
「大切な妹さんを少しお借りしますね、祥子さん」
そう言って、は祐巳を連れて流しへ行ってしまった。
「で、いつ惚気てるの?」
楽しそうな白薔薇様の声に、祥子はため息を吐く。
問題発言をした張本人は、祐巳と彼女の後をついていった由乃と志摩子を加えて紅茶談義中だ。チラリとこちらに向けた瞳が悪戯っぽく見えたのは気のせいではないだろう。
「今日は楽しい経験が出来ました。まさか、女子高でお茶会を楽しめるとは」
紅茶講座を終えたは、淹れた紅茶を持って席に戻った。
「なんだが、もう二度とないと言わんばかりの台詞ね」
「え、もう来ないの?」
江利子と聖の言葉に、は苦笑した。
「本来は男子禁制でしょう?それに今日はたまたま定休日だったんですよ」
志摩子が弁当を忘れなければ。今日が店の定休日でなければ。
きっと彼はここには居なかった。
「なら、来週の今日も定休日ね」
「さんが困ってるわ。第一、本来なら貴重なお休みなのよ?」
蓉子の言葉に、は少し考えるように天井を見上げた。
「私が来たければ構わない、ということですか?」
この心地よい時間を手放したくないと思ったのも、事実だった。
だから、は蓉子をまっすぐに見つめる。
「さん……?」
「もしよろしければ、ですが」
蓉子は、彼をじっと見た後、他の面々を見回した。
そこには期待しかなくて、彼女は小さくため息を零す。
「学園にはどう説明するの?」
確かにこの学園に男であるが定期的に入ってくるためには、学園側への説明は必要だろう。
「少しお時間いただいても?」
考え込む皆を前に、は携帯を取り出した。
薔薇の館の外へ出た彼は、自分の携帯電話を見つめて大きく深呼吸した。
緊張している自分にちょっと苦笑い。
いつもなら気軽に押せるボタンが、とても重いような気がする。でも、心が求めたのだ。ここで過ごす時間は大切だと。
数回のコールの間に、心拍数が跳ね上がっていく。
なんたって初めての経験だ。
『元気にしているか?』
自分の保護者に、わがままを言うのは―――
「無事許可をもらいました。毎週一日、午後にここへ遊びに来れます」
どんな手を使ったのか、戻ってきたは、誇らしげにその機械を掲げて告げた。
「もしかして……あの方たちに……?」
祥子は目を見張る。目の前の青年があの人達に頼みごとをするのを、彼女は初めて見た。
「その『もしかして』です。私の保護者に、貸し一つです。取立てが厳しそうだ」
は携帯をズボンのポケットにしまって、ぐっと身体を伸ばした。
「そこまでしたんですか」
「それは違います」
驚く祥子の言葉を、彼は優しく微笑んで否定する。
「そこまでして、来たい場所なんです」
その言葉は、何故か誇らしく聞こえた。
「また来週……。とても楽しみですね」
こうして、週に一度、薔薇の館では特別なお茶会が開かれることになった。