目の前に、青い空と水が広がっていて、いつもは大人しい青年の気分は著しく上昇中だった。
「おー、コレが川かよ!でけー!長江ってすげー!」
かつて日本にやってきた中国の使節団が、瀬戸内海を見て、日本にも大きな川があるんですねと言った意味がよくわかる。
船縁から身を乗り出して騒いでいる青年の上着を、秋蘭がさりげなく掴んでいるのを見て周囲の者は苦笑いを浮かべていた。
「少し落ち着け。は船酔いしていないようでなによりだが」
「俺の住んでいたところは船も多かったからな。子供の頃は駄目だったが、大人になって慣れたよ。しかし、安定性の向上も図ったが、それでもまだ揺れるものだな」
「うむ。慣れぬ者はこれでも酔っているらしい。特に山育ちに症状の酷い者が多いようだ。凪達が先ほどふらふらと医務室に向かっていたぞ」
だからこそ、秋蘭がここで青年のお守りをしている訳なのだ。
「秋蘭、あれって何?」
「ん?小船を鎖で繋いでいるようだな。この辺りの風習であろうか」
「ふーん。ちなみに川魚売ってもらえないかな?」
河舟で跳ねている川魚や河海老の方に、青年の視線は釘付けになってしまう。
「河海老のかき揚げとホクホク白身の天丼……」
舟を見つめる彼の口元から涎が垂れそうだ。
「今すぐ交渉して手に入れよう。勿論、われらの分もあるのだよな?」
「ここで無いよって答える鬼畜にはなれないなー」
船にてんぷらを揚げられる厨房が何故あるのか。勿論、美味いものが食べたいという欲求を追求した結果である。
本当の事を言えば、彼が趣味で作った半屋外の厨房のある船に、華琳が本陣を置いたのだ。
船に配属される者たちにも、青年が気前良く料理を振舞ったりするので、兵士達の士気は非常に高い。今も周囲を固める兵士達の目が輝いているのは気のせいではない。
「少しでもいいから、船の皆に行き渡るくらいは買ってきてくれる?」
「任せておけ。稟も連れてゆくとしよう。は気兼ねなく料理の準備をしておくといい」
秋蘭の言葉に、は笑って、今日の昼食時に船に乗っているはずの面々を思い浮かべた。
「相変わらず、美味しいわね」
「でも、今日は揚げ物止めとけばよかったかなぁ?船酔いしてる面子も多いしなぁ」
華琳の言葉に周囲を見回した黒髪の青年は、顔色の悪い者が多い事に小さくため息を吐いた。
「そうであったか。青い顔をしている者が多いと思ったが、それが理由か」
開放感あふれる厨房で揚げ物を用意している青年に近付いてきたのは、黄蓋と雛だった。
「まあ、船の揺れと馬と微妙に違うのかもな。それに初の実戦だし?」
軽く肩を竦めた彼に、雛が船の近くにいた漁船を指差した。
「ああいう風に鎖で繋ぐと、揺れが少なくなると聞いてます。試してみられてはいかがでしょうか?」
「へえ。あれはこの辺では良くやる事なんだ?」
次のネタの用意をしながら、黒髪の青年はちらりと視線を動かす。
「うむ。ああすれば揺れも少なくなるし、船自体も大きくなるだろう?この辺り独特の風習じゃな」
「鎖は、すぐに調達できるの?」
カウンターに座っている華琳は天丼を堪能済みで、口の油を流すために秋蘭の淹れたお茶を口にしていた。
油の中にネタを落とすと、じゅわりと香ばしい良い匂いが広がる。
「ええ。問題ないと思います」
「んー。でも、火計とか大丈夫かな?船で大っぴらに火を使ってる俺が言う台詞じゃないけど、風向き変わったら、一巻の終わりじゃないか?」
そんな話をしている間にも、天丼が一つ出来上がって運ばれていく。
「この時期の風向きを考えれば、それは難しいの。我らの位置の方か風上になる」
「……なるほど。では、今夜の停泊予定地にて調達しましょう。お願いできるかしら?」
「任されよう」
二人と打ち合わせを終わらせて、ようやく自分の昼食にありついた青年は、目の前に座る覇王様に声をかける。
「華琳、後で話ができるか?」
「勿論よ。面白い話を聞かせてくれるんでしょう?」
食後の甘味であるライチ果汁のシャーベットを堪能している彼女は、黄蓋の言葉が罠であることを見破っていた。
「期待に沿えるよう頑張ろう」
天丼の味に緩む頬を抑えきれず、ニヤニヤしている青年の表情に、華琳はやれやれとため息を吐いた。
本日の停泊地に到着後、即建てられた華琳の天幕に呼ばれたのは、軍師の三人と秋蘭だった。
ちなみに春蘭と季衣は周囲の警戒に派遣されている。流琉は天幕の外で他の者が入ってこないよう警戒中だ。
「火計で攻められることになるので、罠にかかったふりをして、狩人を釣り出して罠ごと噛み砕こう作戦」
集められた彼女たちの前でグッと拳を握りしめた青年に、彼女たちは自らの主に説明を求めた。
「今から詳しい話をするところよ。、概要を説明しなさい」
「わかった。あー、黄蓋が火計を仕掛けてきた。船を鎖で繋いで、一網打尽にするつもりらしい」
置かれている椅子に座ったは、ふんぞり返ってニヤリと笑った。
「お兄さん、顔色が悪いですけど……」
「大丈夫。昼間の船酔いが抜けてないだけだよ」
心配そうに見上げてくる風に微笑みかけて、彼女の隣に立つ稟に尋ねる。
「雛って鳳統だよね?」
「ええ。あまり表には出てきませんが、伏竜・諸葛孔明と双璧をなす智将と聞いております」
稟の言葉に、ああやっぱりとしか思わない。
「蜀との同盟を知らないと言ったのは嘘だと思う?」
「微妙なところだな。黄蓋も全貌を知らずに動いている。鳳統の正体も『たぶん』くらいじゃないかな?」
桂花の質問に、が答える。こればっかりは推測の域を出ないが、この一連の策を何というかは知っている。
「周瑜から懲罰を受けて脱走した。実にこちらに降りやすい理由を作ったもんだ。自分の身を傷つけて、敵の信用を得る。これを苦肉の策というんだ」
「黄蓋の経験、周瑜の智謀、そして孔明と鳳統の神算が重なった結果という訳ね」
青年の説明に、華琳が納得したように呟く。
「まあ、若干あざとかったがな。生まれた時から水の上で暮らしているような連中が、鉄の重りなんか船につけるかっての」
「恐らく、提案に信憑性を持たせようとしたんでしょー」
と風がやれやれと言いたげに顔を見合わせて、肩を竦めた。
「で、罠にかかったふりをして、狩人を釣り出して罠ごと噛み砕こうという訳だ」
「どうするつもりなの?いくら何でも鉄の鎖は喰い千切れないわよ?」
「ははは。『千里眼』なめるなよ?こんなこともあろうかと!」
じゃじゃーんと用意してあった設計図を取り出した。
「これ、真桜と一緒に考えたんだけどな……」
机の上に広げたそれを説明していくと、全員の顔に理解の色が広がる。
「いつも通りに戦えば負けはないわね。それだけの人材がいるのは間違いないもの」
華琳はそう微笑んで、続けて他の分担を指示していく。
「じゃあ、俺は真桜と罠殺しを仕掛けに行ってくるよ」
「、待ちなさい。稟、真桜にはあなたが伝えて」
椅子から立ち上がり工兵達のところへ向かおうとした青年を、華琳が呼び止める。
気づけば、王様の天幕からは人払いがされていて、二人っきりだった。
「どうした?」
「どうした、はこちらの台詞よ。船酔い?さっきまであんなに元気にしていたのに?」
首を傾げて見つめてくるを、華琳は再び椅子に座らせる。
天幕の蝋燭ではわかりにくいが、確かにあまりいい顔色とは言えない。
「俺にもわからん。どうも体調が落ち着かない。戦が終われば休養をとる。……ダメか?」
「貴方が倒れたら、どれだけ影響を及ぼすか解っているの?本当なら、都に押し込めておきたいわ」
「監禁は勘弁してくれ」
苦笑する彼に、華琳のこめかみがひきつる。
「それだけの事をしているのだと反省しなさい。この馬鹿」
むにっと頬を抓られたは、降参とばかりにそっと両手を掲げた。
「罰として、今日はこのまま、私の抱き枕になりなさい。異議は認めないわ」
そのまま首に腕を回して膝の上に座り込む王様を抱きしめながら、黒髪の青年は内心で白旗を掲げた。
「あー、よく寝たのー」
「それはよかった。凪も今日は顔色がいいな」
船縁で大きく身体を伸ばす沙和と、今日も護衛をしてくれている凪に笑いかける。
「今日は船が揺れないから、気持ち悪くならないの。この鎖のおかげ?」
「鎖で繋がれるだけで、このように安定するとは。随分と違うものですね」
全ての船には昨夜のうちに、船縁に設置されていた鉄杭に固定用の鎖がガッチリと巻き付けられていた。
「真桜に感謝しておいてくれ。昨日の夜遅くまで作業してくれていたらしいから」
「おはよーさん」
噂をすれば影とばかりに、船内から真桜が顔を出した。
「昨日はお疲れ様、真桜。もう少し休んでもいいぞ」
「まあ、仮眠もとれたし、確認すること終わらせたら、また少し休ませてもらうわ」
真桜はあくびを噛み殺しながら、杭の様子を確認していく。
「あれ?」
「どうした、沙和……ん、あれは?」
そんな真桜を見送った後、二つ向こうの船に乗った兵士達を見ていた沙和と凪が視線を交わす。
「どうした、二人とも」
「私の見たことのない顔がばっかりなの。凪ちゃん、知ってる?」
「いや、覚えがない」
「……あれは都の正規軍の鎧だろう?見覚えのある顔はないのか?」
部隊によって鎧の意匠に差がある。都の正規軍が着る鎧は、青年も手伝っていたので覚えがある。
「ひとりもいないのー」
「仮に全員は知らなくとも、ひとりふたりは教えた顔がいるはずなのですが……」
「そうか。……うん。教練を君たちに任せた俺の判断は間違ってなかったな」
二人の確信をもった答えに、は胸を張った。
「凪。この件を華琳に伝えてくれ。くれぐれも黄蓋には気づかれないようにな」
「はい。すぐに連絡いたします」
その時、その部隊の指揮官が姿を見せた。
「隊長、あれ……」
「ああ。黄蓋の部隊だ。昨日の夜、鎖を運び込んだ連中だろう」
彼女たちの知らない兵士達と親しげに話す黄蓋が、そこにいた。
「。起きなさい」
「……ん。そろそろか?」
まだぼやける意識を少し頭を振って、しっかりさせる。
「寝ていたら、少しは楽だったんだが」
「大丈夫なの?」
「風が、変わったな。来るぞ」
「……本当に大丈夫なのね?」
華琳が二回も確認をするのは、それほどに彼の顔色が酷いからだ。
「ああ。さっさと終わらせて、ゆっくり休もう」
黒衣の魔法遣いは側に置いていた黒弓を手に取り立ち上がる。
彼らは間違いなく、歴史上の分岐点、その場所に立っていた。
そして、ここで決定的になるだろう。
「さあ、行こう 」
引き返す事の出来ない、その場所へ――――
マジで宝くじの一等を当てて、仕事からリタイアしたい今日この頃です。
いつの間にか桜の時期も終わり、GWに突入しそうな現実から逃避してます。すみません。
さあ、次は『赤壁』だー!
コメント by くろすけ。 — 2016/04/27 @ 15:09