その日は朝から何か変だなとは思ってはいたのだ。
朝、灯里達が姫屋の前に集合してみれば、笑顔で仁王立ちした晃が立っていた。
「今日は時間が空いたからな。お前らがどれだけ成長したかみてやろう」
そう言って彼女は緊張する後輩達のゴンドラに乗り込む。
「よし。では、まず藍華からな」
「はい」
晃の指名で、最初は愛弟子である藍華がオールを手に取った。
「藍華ちゃん、頑張って」
「ファイトです。藍華先輩」
二人の声援を聞きながら、ゴンドラを滑らせていく。
そんな時間がしばらく過ぎた頃だった。
「おはよう、今日も三人で練習ですか?」
藍華の後ろからかかってきた声に、晃が振り向けば、そこには見知った顔が黒いゴンドラを漕いでいた。
「おや、今日は晃の特訓付きで……」
晃の顔を見て微笑んだ青年だったが、途中で言葉が途切れる。
「……さん?」
マジマジと晃を見つめている彼に、後輩達の方が首を傾げた。
彼は大きなため息をひとつ吐くと、舟をすぐ横に並べて晃に笑顔で手を差し出す。
「晃」
「大丈夫だ」
急に不機嫌になった晃と、怖いまでの笑顔を顔に貼り付けているを、後輩達は戦々恐々と見つめている。
「藍華ちゃん。ちょっとごめんね?」
五秒ほど待って、青年は強硬手段に出た。
「うわっ!?」
舟を飛び移って、座っていた彼女を両手で抱えて、また舟に戻る。
この間、二秒。
「じゃあ、三人は練習頑張って。ああ、帰りに果物を買ってきてくれるかな?」
「は、はい」
ジタバタと青年の腕の中で暴れている三大妖精の一人を、意図的に視界から外しながら藍華は頷いた。
「また後でね」
そう言って彼はまだ暴れる彼女を片手に、舟を動かしていった。
彼の舟が街角に消えてから、残された三人は思い出したかのようにため息を吐いた。
「晃さん、何かあったのかな?」
「見事な拉致だったわね」
「でっかいすごいです」
少し早めに合同練習を切り上げて姫屋に戻ってきた三人は、晃の部屋にやってきた。
「晃さん。いらっしゃいますか?」
ドアをノックすれば顔を出したのは、黒髪の青年だった。
「ああ、お帰りなさい。お疲れさま」
「さん。あの、晃さんは…?」
「とりあえず入って。今、飲み物を淹れるから」
は勝手知ったるとばかりに、三人を部屋へ招き入れる。
「ん?お帰り……」
中に入ればベッドに横になった晃が身体を起こそうとして、に笑顔で怒られた。
「病人は寝てる。明日は仕事なんでしょう?」
「む……」
すごすごとベッドへと戻る晃に、藍華は目を丸くする。
「さんって凄い……」
「こいつが本気で怒ったところを知らないからだ」
晃が半眼で睨んでいる青年は、その視線を軽く受け流して、買ってきてもらった果物の皮をナイフで軽やかに剥いている。
「帰って計ったら38.5度もあって。速攻で寝かしつけました」
笑っている青年を見て、後輩達は改めて思った。
『奥が深い』と。