「珍しいこともあるよね。あの子が嫌がりもせずに、進んで執事生活してるなんてさ」
1人の女性がバスから降りて、身体をぐっと伸ばした。短めの髪とパンツスーツがやけに似合っている。
「そうね。早く会いに行きましょう?あの子に会うのも久しぶり」
その後ろから現れた女性は、パンツスーツの女性の袖を引っ張って歩き出す。
「和樹も運がないね。こんな楽しい時間を一緒に過ごせないなんて。せめてって、かなり力入れてケーキを作っていたけど」
パンツスーツの彼女が掲げる箱には、彼女達の被保護者の大好物が入っている。今日という日に、外せない仕事を入れた秘書や会社に八つ当たりぎみの文句を言いながら、会心の一品を作り出していた彼を思い出し彼女は笑っていた。
「雷さんも。こんな日にお仕事を入れるなんて、残念ね」
一緒に居る少し波打つ黒髪を持つ女性も、今頃自棄になって仕事をこなしているだろう人を思い出して小さく笑った。
「さて、あの子は元気かな?」
二人は『リリアン女学園』と書かれた門を前に、笑いあった。
その日も諒はお手製のケーキを手に薔薇の館を訪れていた。
湯沸かし器の用意をして、室内を掃除していく。大抵の場所は綺麗に整頓されているが、女の子だからこそ手の届きにくい場所があった。そんな場所を掃除したり、彼女達には重い戸棚をひょいと移動させて床を綺麗にしたり、どこの主夫だと突っ込みたくなるような手際のよさを発揮させる。
片づけが終われば、彼用にと置かれたソファで持ってきた本でも捲るのが最近の日課だった。後しばらくして、授業の終了を知らせる鐘が鳴り響けば、彼が大切にしている人達がやってくる。
彼は本の文字を追いながら、その時を楽しみにしていた。
その日、紅薔薇の蕾は掃除のため、薔薇の館へ向かうのが少し遅れていた。少し早足の彼女に気付いて、その人は声を掛けた。
「祥子ちゃん」
呼ばれ方に思わず足を止めた。学園内でそう呼ぶ人達は既に卒業してしまっているはず。
振り向いて彼女は珍しく満面の笑顔を見せた。
「お久しぶりです」
丁寧に頭を下げて、挨拶する。
「これから会いに行きたいんだけど、案内を頼んでもいいかな?」
「勿論です。きっと驚かれますわ」
「でしょうね」
祥子は彼女達と楽しげに話しながら、再び目的地へと歩き出した。
「祥子さん、今日は何かの当番ですか?」
紅茶の準備を済ませて、諒は隣に居た祐巳に尋ねた。
「はい。確か、礼拝堂の掃除だったと…、あそこは特に丁寧にしなくてはいけないので」
「礼拝堂があるところに驚くべきでしょうか。この場合」
祐巳の言葉に諒は苦笑した。よく考えたら、彼はここと校門の往復だけで、他の場所に何があるのかよくは知らないのである。
「今度、色々案内してあげるよ。諒さんが気に入る場所があればいいけど」
そう言った聖は、今日も後ろから抱き着いている。
「……いいんですか?」
思わず蓉子を見てしまうのは、最早条件反射に近い。
「そうですね。もう少しすれば仕事も落ち着きますし、構いませんよ」
蓉子の言葉に本当に嬉しそうに笑う青年に、江利子は苦笑した。
「そんなに楽しいものがある訳じゃないですよ?」
「それでも、貴女達がいつもどんな教室で勉強しているのかとか、日本の学校にどんなものがあるのか。自分の知らない事を知るのはとても楽しいことですから」
「ああ、諒さんは日本の学校に行かれた事がなかったんでしたよね?」
今日の書類をまとめている令の呟きに、諒はくすりと笑った。
「ええ。高校生活は丸ごと飛ばされましたからね。人生ショートカットの大安売りです」
諒の台詞に、部屋中に笑いが満ちた。
その時、ドアが開いて、諒は祥子が来たのだと思って、視線を向けて動きを止めた。
「あらあら。にぎやかね」
「随分と楽しそうだね」
驚きで固まっている彼の表情は少し幼くて、彼が自分より一つ上であることを祥子は思い出した。
「どうして、ここに……」
ふらりと入り口へと歩み寄る諒に、彼の保護者達は微笑んだ。
「何でって、決まってるじゃないか」
「諒の大切な人達に、挨拶に」
「本当は挨拶はついでで、遊ぶ気なんでしょう。私をからかって」
軽くへこんでいる青年のことなどお構いなしで、二人は笑っている。
心の底からため息を吐いて、彼は覚悟を決めた。
「ご紹介します。私の保護者の水無月裕哉さんと神代瑞貴さんです」
とりあえず、客用にと珈琲と紅茶を一つずつ増やして、諒は保護者を紹介した。
「どうも、初めまして。あ、祥子さんだけは会った事あるよね」
「私は前に諒が風邪を引いた時にお会いしたわよね。諒がいつもお世話になっています」
二人が頭を下げた後、一人ずつ自己紹介していく。
皆一様に緊張の面持ちで、それを見ていた裕哉は瑞貴と顔を見合わせ笑いあった。
「もう一つくらいは入るかな?」
裕哉がお土産と掲げた紙箱に、女の子たちは目を輝かせる。
「特製レアチーズケーキよ。諒、お願いね」
「はい。和樹さんと雷さんはどうしたんですか?」
裕哉からケーキを受け取りながら、尋ねてみれば端的な言葉が返ってきた。
「お仕事」
「あの人達も貴方に会いたがっていたのだけれど、残念ね」
瑞貴は諒の肩を軽く叩いて苦笑した。本当なら頭を撫でてあげたいのだけれど、随分と昔に追い抜かされてしまった身長のせいで、それは叶わない。
「しかたありません。忙しい人達ですし。裕さんと瑞貴さんが来てくれただけでも嬉しいです」
今日はどうやら彼が歳相応に見える日らしい。『子供』である彼を見られるなんて。
「昔はこんなに可愛くて、家に帰れば飛んできてチューしてくれたんだ」
がらがしゃん。
カップやお皿が一つも割れなかったのは、天運か、マリア様の奇跡かというような大きな音が響いた。
「……裕さん?」
「ん?」
肩越しに振り返れば、満面の笑顔を振りまいている裕哉の手にはアルバム。薔薇様を中心に興味深々で見入っていらしゃるそれは、恐らくというか間違いなく諒の小さな頃のアルバムなのだろう。
「ほらほら、よそ見してないの。怪我はしてない?」
テーブルから離れて来てくれたのは、瑞貴だけで。
「瑞貴さんがあれを止めてくれたら、怪我なんてしません」
まるで拗ねた子供のように言って、諒は女の子に囲まれて嬉しそうなもう一人の保護者を指差した。そんな彼の言葉と顔に驚いた表情を見せたのは、山百合会の面々だ。
「あいかわらず瑞貴にだけは子供っぽい」
「仕方ないでしょう。皆が仕事でいない時、いつもいてくれのは瑞貴さんだけでしたし」
「それもそうだ」
「でも、私は貴女が帰ってくるのを楽しみに待っていましたよ?」
「うん。知ってる」
裕哉は優しい目で、ケーキを切り分けている諒の背中を見つめた。彼はいつも自分が迷惑を掛けたと思っているから。彼は知らないのだ。自分たちが、どれだけ彼に救われてきたのか。
「裕哉が帰ってきたら、ずっとべったりだったものね。はい、どうぞ」
先に瑞貴がお皿を配っていく。慌てて一年生達も手伝い始める。
配られたお皿の上には、何処に出しても恥ずかしくないほど立派なクリームチーズケーキが鎮座していた。
「諒さんがケーキ食べてる……」
珍しく諒が率先してケーキを食べ始めたのを見て、聖が驚きの声を上げた。
「ははは。このケーキだけは大好物なんだよ。諒は昔からこれを食べると機嫌を直してくれるんだ」
裕哉の言葉にも、諒はまるで子供みたいに笑ってケーキを口に運んでいる。いつもは格好いい人なだけに、このギャップの破壊力は素晴らしい。
「諒さん」
食べ終わって珈琲を飲んでいる諒が、空になったお皿をちょっと寂しそうに見つめたから。思わず隣に座っていた志摩子は残っていたケーキを差し出していた。
「!」
室内に緊張が走る中、それに気付いていないたった一人は、幸せそうに彼女に微笑む。
「いいんですか?」
「よければどうぞ」
志摩子の言葉に諒は嬉しそうに、差し出されたフォークからケーキを頂いた……その瞬間。
「諒」
保護者二人からお呼びが掛かる。声のトーンから何かを察したのか、諒の肩がびくりと震える。
「ちょっとおいで」
手招きされた彼の表情を一言で表すなら『逃げ出したい』だろう。だが、そんな事が保護者思いの苦労性の彼に出来るはずもなく。
二人に連れ出された彼が戻ってきた時、まるで叱られたわんこのようだと全員が感じて微笑んだ。
諒に罰として皿洗いを命じた後、裕哉が満足げに珈琲を飲んでいた時、以前贈ったものが目に入った。
「お、あのソファ使ってくれているんだ」
「ああ、それはいつもあそこでお昼寝をされるから」
蓉子が言った言葉に、裕哉は間抜けな返事を返してしまった。
「へ?」
それは彼が二人を驚かせる事に成功した瞬間だったのだが、一人罰として皿洗い中の彼が知る由も無い。
「それは本当なのかしら?」
瑞貴も驚いて、蓉子を見つめている。
「ええ。諒さんのお昼寝用ではなかったのですか……?」
蓉子の方が軽く首を傾げた。彼女達にしてみれば、あのソファは既に彼の指定昼寝場所だ。
「本当に君たちが大好きなんだなぁ」
「どういうことですか?」
裕哉の言葉に江利子が尋ねる。
「あの子、私たち以外の人が居ると絶対寝ないから。その辺りは凄く警戒心が強いんだよね」
「うふふ。飛行機で海外に行った時、ホテルに到着早々『眠い』って熟睡してしまって…。機内で全く仮眠をとってなかったらしいの」
そのときのことを思い出したのか、瑞貴は笑っている。
「まあ、それだけここは気が抜けて、休める場所ということなんだけれど……なんだかちょっと寂しいなあ」
「そうね」
そう言って諒を見つめる二人の目はとても優しくて、やっぱりあの人の保護者なのだと思わせる。
「もしよろしければ、この後はあの子の店で食事をしながらにしませんか?」
「まだお話したい事もあるしね」
瑞貴と裕哉の提案に、山百合会の面々はイチモニモナク頷いた。
突然やってきた保護者達により、まだまだ黒髪の青年の受難は終わらないようだ。