今日は週に一日だけ、この学園に来る事が出来る日だというのに。そう考えてため息を吐いた青年は、『針のムシロ』というものを体験している真っ最中だ。
薔薇様と呼ばれる三人は、何故か勝ち誇ったような微笑みを浮かべているのに対して、蕾と蕾の妹様達は不機嫌そうな顔で、を見つめている。何かと尋ねても、不機嫌そうな顔で目を逸らされてしまうだけだ。
何故こんな事になっているのか、青年は窓の外に広がる蒼い空を見上げて、世の不条理さについて考えてみた。
恐らく、原因は先週の事だろうと思う。
店に遊びに来た聖が眠ってしまい、色々あった末に、蓉子と江利子も一緒に彼の家で夕食と相成った。メニューは聖がリクエストしたラーメンに、バランスを考えて中華風サラダを添えて、デザートに牛乳プリンを出した。
……それの一体何が悪かったのだろうか。『妹』に黙って『姉』である彼女達をむさ苦しい自宅ヘあげたことか?それとも、ラーメンという庶民的な食べ物が駄目なのか?結構な会心の一品で、三人は喜んで食べてくれたのだが。
グルグルと考え込みながらも、青年の手は美味しい紅茶を作り上げていた。ちょっと濃い目になってしまったのはご愛嬌だ。
「心当たりがありすぎです」
そう呟いた後、彼は振り返った。
「やっぱり勝手にお姉さんたちをお借りした事ですか?」
「……はぁ」
の台詞に全員が同時にため息を吐いた。
「どうして、そこでそうなるのか、一度トコトン問い詰めてみたいよね」
「全くだわ」
苦笑する聖に、蓉子も苦笑で返す。
「普通は『私もさんの家に行きたかった』になると思うんですけど」
江利子の言葉に、は目を丸した。
「そうなんですか?」
彼の不思議そうな言葉に、蕾達とその妹は重々しく頷く。
「年頃の女性たちがむさ苦しい男の一人暮らしの家に来たがるのはどうかと思うんですが」
「お姉さま方は夕食をご馳走になったと聞いているのですけれど?」
ため息と共に零れたの台詞に、祥子が素晴らしい笑顔で答える。
「とても美味しかったと」
彼女の言葉に、令が続ければ一年生たちも頷いている。
「普通のラーメンですよ?デザートの牛乳プリンも間に合わせでしたし」
小さく首を傾げる青年に、全員がため息を吐いた。
という人が作ったものに価値があるというのに。
「さんって、朴念仁ですよね」
「そのくせ、天然たらし」
「老若男女の別なくね」
薔薇様方の言葉に、は軽くヘコんだ。
それから数日後の朝。
「ごきげんよう、紅薔薇様」
「ごきげんよう」
学園への道を歩きながら、掛けられる声に蓉子はゆったりと微笑んで返事をしていく。なにやら校門前がざわついている様子だった。
見れば背の高い男の人が所在無げに立っていて、その様子に蓉子は首をかしげた。
生徒たちからの視線に困惑している彼は毎週1回、薔薇の館で美味しいお茶とケーキを振舞ってくれる青年で、今日は確か定休日ではないはずだ。営業しているという喫茶店の服なのだろう、黒いスラックスと白いシャツに黒のチョッキがとてもよく似合っていた。
「さん?」
彼女の声に気付いて、彼の表情がふんわりと優しい笑顔に変わっていく。
「おはようございます、蓉子さん」
まるで助けを求めるように駆け寄ってくる彼に、蓉子は小さく笑ってしまった。
「ごきげんよう、さん。これからお店ですか?」
「はい。あの、今日のお仕事は忙しそうですか?」
少し緊張した顔になった彼に、蓉子は首を傾げる。何か困ったことでもあったのだろうか。
「いえ?今日は特には」
「そうですか」
途端に気の抜けたふわりとした微笑を浮かべる彼に、周囲から声とシャッター音が聞こえた。彼は驚いて、カメラを構えた生徒を見つめている。絶好のシャッターチャンスをものにした本人は、小さくガッツポーズをしている。
「大丈夫ですよ、さん。あの子は本人の許可無く写真を配ったりはしませんから」
目を丸くしているを見上げて、蓉子は笑って告げた。
「それを聞いて安心しました。昔から写真にはいい思い出がないので」
また聞いてみたいことが出来たと思いながら、蓉子は話の先を促した。
「今日のお仕事が終わったら、皆さんで私の店にいらっしゃいませんか?」
「さんのお店…?」
「ええ。とてもいい物が手に入ったので、是非皆さんと夕食でもどうかと……やはり、突然ではご無理でしょうか」
ついさっきまで幸せそうに話していたのに、最後にきて項垂れてしまう彼がどこか可愛くて、蓉子は耐え切れず笑い出した。
「蓉子さん?」
「なんでもありません。皆というのは、山百合会の面々でよろしいですか?」
困惑している彼にそう答えれば、また笑顔を見せてくれる。知り合ってから時間が経つたびに、彼が見せてくれる表情は増えていった。
初めて会った時は、随分と大人びた人だと思ったけれど。
「皆さんの都合が良い日があれば、変更も可能ですから」
出来れば皆で楽しめればと笑う彼が何かに気付いて、再び優しく目を細める。その表情に視線を転じれば、蓉子の後ろに令が走ってくるのが見えた。
「おはようございます、令さん」
「ごきげんよう、令」
「ごきげんよう、蓉子様、さん。どうしたんです?こんなところで」
こうやって誰かに捕まってしまっては、次々と山百合会の面々は集まってしまうだろう。ここで目立つのは、あまり得策では無い。もう遅いかもしれないけれど。
蓉子はもう一度を見上げて、用件を確認する。
「さん、先ほどの件は私の方から伝えておきます。それでよろしいですか?」
「はい。お店までの簡単な地図になります。住所と電話番号も書いてありますので、わからない事があればご連絡ください」
手書きのそれに目を落とせば、確かに彼の言ったものが書かれていた。
「わかりました。では、ごきげんよう。さん」
「ごきげんよう、さん」
蓉子とまだ訳がわからない令が頭を下げれば。
「はい。では、今日も一日楽しんでください」
そう言って彼は優しく頭を撫でてくれた。
「大きな手でしたね」
「そうね。令、祥子や由乃ちゃんに伝えて欲しいのだけれど……」
蓉子はさきほどから聞いた事を彼女に伝える。今日の放課後は仕事にならないだろう。蓉子はマリア様の前で小さくため息を吐いた。
「さんのお店に行くのは初めてね。出会ってから随分たつけれど」
蓉子は地図を見ながら、聖をちらりと見上げる。
「誰かさんが教えるのを嫌がるから、ずっとわからないままだったものね」
江利子も聖を見上げれば、彼女は不機嫌だと眉間に皺を寄せていた。
「……隠れ家だったのに」
ボソリと呟く聖に、蓉子は微笑んでいた。
今度、彼に聞いてみよう。どうやって、この子を手懐けたのか。
地図の場所までやってくると、ちょうど店じまいをしたところなのか、店の前でが看板を片付けていた。朝と同じ黒のズボンと白のシャツ、黒のチョッキが良く似合う。
一番に聖が駆け出した。その足音に気付いたのか、振り返った彼は、客用ではない微笑を浮かべてくれた。駆け寄って抱きつく聖を難なく受け止め、安心させるように優しくその背中を撫でる。
「今日も楽しんできましたか?」
聖は何も答えず彼に抱きついたままだ。そんな彼女の背中を優しく叩いて、後ろで待つ面々の為に扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
中はとても落ち着いた雰囲気で、少し広めに座席が置かれている。
もうすっかり片づけが終わった店内に、全員が首を傾げた。てっきりここが本日の夕食会場だと思っていたのに。
「ああ、今日の会場はこちらではないんですよ。ご案内いたします。さあ、どうぞ」
がっちりと聖に左腕を奪われたは、店内から中庭へ出るガラス扉を指差した。
「このお店に来るようになって長いけど、こんな庭があるとは知らなかったなぁ」
夕暮れにそまるその庭は、よく整備されていて聖は珍しそうにあたりを見回している。
「店の近くだけ花を植えているんです。あと、よく使うハーブとか。もう少し進むと植えられているのものがガラリと変わりますよ。私は基本的に食べられる実がつく物が大好きですから」
そんな彼女が転んだりしないように手を引きながら先頭を歩くは、それは楽しそうに笑っていた。確かに彼の言うとおり、しばらくすると野菜や果物がメインの家庭菜園になっていく。
「ほら、目的地が見えてきました」
そんな畑の奥に見えてきたのは、薔薇様方にはどこか見覚えのある家が一軒。
「さん、もしかして……」
他の面々もここがどこか悟ったらしい。
「ようこそ、むさ苦しい我が家へ」
家の前に立った彼は、庭に用意されたテーブルの前で優雅に一礼してみせた。
どうやら『いい物が手に入った』というのは、口実だったらしい。彼はここ数日どうやったら問題なく自宅へ彼女達を招くことが出来るかを検討した結果、保護者達に色々送ってもらうことにしたようだ。
これなら、学校側にも保護者側にも問題なく『日頃のお礼を兼ねて』と説明が出来る。
それも入り口はお店側だ。自宅に直接招くよりはということだろう。
「さんって、こういう事には気が廻る人だったわね……」
「いつもはあんなに鈍いのに」
「なんて、タチの悪い無自覚なのかしら……」
蓉子のしみじみとした呟きに、江利子が笑った。
喫茶店と男主人公の家が全員に判明。
『ほら、温かいって知ってる』の続編にあたります。
この後『声変わり(マリみて:ALL)』『それはまるで、天災のように』と続きます。
実は祥子さんも知らなかった彼の自宅。でも、祥子さんは彼の保護者ズの家を知っています。
コメント by くろすけ。 — 2009/02/13 @ 19:39