こんなにお昼休みが待ち遠しかった日は初めてかもしれない。
志摩子はお弁当を持って立ち上がった。
教室を出る時に祐巳と、廊下で由乃と一緒になり、一年生が揃って薔薇の館へ向かう。
「何か聞かれた?」
その途中で由乃が突然言った言葉に、志摩子と祐巳は顔を見合わせ苦笑した。
「蔦子さんから、あの人は何者って」
「私も」
「噂に尾びれ背びれがついて泳ぎ回ってるみたい」
その内容を思い出したのか、由乃も苦笑いする。
「私が聞いただけでも、小笠原家の執事だとかSPだとか。果ては新任教師まで」
「黒服のさんとお姉さま。確かにもの凄く似合いそうだけど。実際の年齢を聞いたら、みんな驚くよね」
笑いあう友人二人の言葉に、志摩子は確かにと頷いた。
「でも、その実態は近所の喫茶店のマスター」
「あのタルトは絶品でした」
祐巳が先週、青年が手土産にと持ってきたベリータルトを思い出したところで、彼女達は目的地へたどり着いた。
「ごきげんよう、さん」
「はい、こんにちわ。お疲れ様でした」
三人が揃って挨拶すれば、昼休みに入る少し前に来ていたのだろう。
は既にお茶を淹れる用意をして、彼女達の到着を待っていた。
「んー」
「…さん?」
挨拶をして小首を傾げる彼に、一年生達も小さく首を傾けた。
「私も『ごきげんよう』と返した方がいいのかと思って」
そう言って笑った彼は、先週はそこに存在しなかったものに視線を戻した。
見ているだけで眉間に皺が寄ってしまう、白い帆布で覆われたソファ。
そのサイズは背の高いが余裕で横になれる大きさで、彼が一番好きなメーカーのものだった。
となれば、ここに送り付けた人物『達』に心当たりがありまくりだ。
「さーん、眉間に皺が寄ってるよー」
いつの間にか来ていた聖に、人差し指で眉間を解される。
「……これ、邪魔なら引き取りに来させますが」
「ああ、これね」
聖はソファに座って、を見上げた。
「私は気に入ってるよ。凄く転がりやすいし、さんのお店にあるソファと同じやつ?」
「ええ、まあ」
「手紙が添えられてたよ。えっと、どこに仕舞ったっけ?」
先生に呼び止められて、少し遅れた蓉子に視線を向ける。
「どうぞ、さん」
聖の言葉に苦笑しながら、蓉子は仕舞っておいた封書を取り出した。
「すみません……」
封を開けて手紙に目を通していく姿も様になっている。
背後から聖が、左右から江利子と蓉子が覗き込む中、手紙を読むは読み進むほどに眉間の皺が深くなってゆく。
「あの人達は……いったい何を考えているんだか……」
手紙には、彼の近況をもっと小まめに伝えるようにという催促と、昼寝用のソファを送るので大切に使うようにと、目の前に置かれたソファの事が書かれていた。
「あら、もう一通入ってるわ」
最後に『が大切に思う方々へ』と書かれた一回り小さな封書がもう一通。ちなみに表には注意書きとして『は読むべからず』と書かれている。
それを青年は不審そうに見たが、勝手に開ける事はせずに、令と祥子もやってきて食事の用意の整ったテーブルの上に置いた。
「食事の前に読まれますか?後にされますか?」
「先に」
全員の声が綺麗な調和を生み出した。
が飲み物の用意をしている間、その手紙はじっくりと読まれていた。
一度に全員がという訳にはいかず、紅薔薇、黄薔薇、白薔薇と手紙が回されていく。
その都度、の背中には視線が突き刺さり、ため息が聞こえてくるという事を繰り返した。
「……えっと、皆様?」
振り返って尋ねる青年の口元は、多少引きつり気味だ。
「手紙は焼却処分にして欲しいそうです」
「どこの英国諜報部員ですか?」
蓉子の言葉には思わず突っ込みを入れた。
「最後に書いてあったのよ。面白い人達ね、さんの保護者」
「それは否定の余地がありません」
楽しそうに笑う江利子に、彼は諦めたように首を振る。
「で、さんは中身を知りたい?」
「教えてくださるんですか?」
「ないしょ」
聖の言葉に、青年は右手で自分の首を軽く撫でた。
「わかりました。その手紙の処分はお任せしても?」
最後に回ってきたそれを手にしている彼女に、は微苦笑を浮かべる。
「あれー。随分と諦めがいいね」
聖はヒラヒラとそれを振ってみせた。
「手紙の中身が気にならない訳ではありませんよ」
「では、どうして?」
好奇心にあふれた顔で見つめてくる蓉子に、青年は肩を竦めて答える。
「女性がそういう表情で『ないしょ』という言葉を使う時は、大抵教えてくれないか、多大な犠牲を必要とすることを知っているので」
さすがだなと全員が感心したところで、彼の用意した飲み物が配られて楽しいランチタイムの始まりを告げた。
「もしかして……それだけですか?」
聖が広げたサンドイッチを見て、彼は眉を寄せた。
「ん?そうだけど?」
あっけらかんと答える彼女に、は深々とため息を吐いた後、持って来ていたカバンから何かを取り出した。
「はい。後、これくらいなら入るでしょう?果物とヨーグルト」
「入るけど……くれるの?」
「本当はお弁当一式プレゼントしたいところです」
そう言って彼が自分用にと取り出したお弁当に、全員が目を丸くした。
少し小さいとはいえ、お重二段がそこにはあった。
「それ全部食べるんですか…?」
「育ち盛りですから。このくらい普通ですよ?」
あければ、中には色とりどりのおかずと、お握りが詰まっていた。
「もしかして、それもさんの手作りですか?唐揚げ、美味しそう…」
「よければ、お一つどうぞ」
は笑って隣に座っていた由乃のお弁当の蓋に唐揚げを一つ乗せる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
彼はお礼を言う由乃に笑いかけて、自分も一つ食べようとしたところで手を止めた。
「……そんなに唐揚げが好きなんですか?」
自分に視線が集中していることに気付いて、箸でつまんだそれを軽く振ってみる。
「というより、さんのお弁当が美味しそうねと思って」
「そうですか?」
江利子の言葉に、彼は自分のものを改めてみるが、さっぱりわからない。
「ねえ、私も何か一つもらっていいかしら」
「どうぞ?」
何が気になるのかはにはわからなかったが、自分が作ったものを食べたいと言ってくれるのは少し嬉しい。彼はおかずの入った重箱を差し出した。
一人が一品ずつ取っても、まだお重の中は8割が埋まっていたのだが。
それは15分後には、綺麗に彼の胃袋に納まっていた。
「ご馳走様でした」
「からっぽ……」
志摩子は綺麗になったお重を見て、小さく呟いた。
「私には、それだけで足りてしまう女の子の方が不思議なんですが……」
彼は隣に座る彼女のお弁当箱を見て、微苦笑する。
「ああ、だからこそ。こんなに可愛らしいのか」
すっと自然に彼は志摩子に微笑んだ。
「はい、そこー。勝手に人の妹を口説かないー」
ちょっと不機嫌そうな聖の言葉に、は不思議そうに目を丸くしている。
「あれが口説き文句じゃないあたり、本当に凄いわね」
「無意識の産物ですから」
感心した様な江利子の言葉に、祥子が深々とため息を吐いた。
「あの、大変申し訳ないんですが」
お昼休みもそろそろ終わる頃になって、は蓉子の隣に膝をついた。
目線を合わせるためだったが、まるで跪づいているようにも見えるその光景に、蓉子は頬を染めた。
「何かしら?」
「早速で申し訳ないのですが。放課後まで、こちらで仮眠をとらせていただけないでしょうか」
「どうして、蓉子にお伺いを立てるのかな?」
聖はまた不機嫌そうにを見下ろす。
「え?こちらの責任者さんでは?」
は両手で蓉子を指し示す。
「……どうして、そうなったのかしら」
彼の言葉に、蓉子は額に手を当てる。
「薔薇様の中で一番責任感が強そうだからじゃない?」
「なるほど」
ニヤリと笑った江利子の言葉に、彼は思わず手を打った。
「江利子。さんも納得しないでください。……構いませんよ、私たちは午後の授業に出ていますし」
「ありがとうございます。今、家の近くで工事をしていて、少し寝不足で……」
ちょっとあくびをかみ殺した彼に、蓉子は小さく笑っていた。
「あ」
それを見たは、さらりと爆弾を落とす。
「やっぱり、女の子は笑っている時が一番可愛いですね」
彼の唐突な言葉に顔を真っ赤にしてしまった蓉子は、江利子と聖に教室へ戻るまでからかわれることになった。
聖は六時間目をサボって、薔薇の館へ来ていた。
出来るだけ音を立てないように階段を登って、部屋に入ればソファに大きな身体を乗せた青年が気持ちよさそうに眠っていた。
「ん……?せい、さん…?」
「まだあと一時間あるから、寝てていいよ」
「でも、…さびしい、でしょう?」
かなり寝ぼけているが、はそう言って優しく微笑んだ。
「……っ」
「いま、おき……」
「いいよ。大丈夫。さんの側にいるから、寂しくない」
聖は彼の瞳を手で覆うように隠す。
「ほんと、に…?」
「うん。手を握らせてもらうし」
「では、おことばにあまえて……」
彼はもう一度眠りの世界へ落ちていった。
「ずるいなぁ、さんは……」
聖はその暖かい胸に額を落として、目を閉じた。
誰かが階段を登ってくる音で、はゆっくりと意識が覚醒していくのを感じていた。
ここは自宅ではないということ。
今、自分の上に何か暖かいものがあるということ。
もう少しまどろんでいたい、暖かい場所であるということ。
一つ一つ確認していると、扉が開く音がして足音が止まった。
しばらくして他の誰かがやってきては、足音がまた入り口で止まる。
「……ふあぁっ……ん」
あくびを一つして起きようとしたが、やっぱり何か上にいて動けない。
視線だけでも動かしてみれば、そこには原因が気持ちよさそうに眠っていた。
「……聖さん、起きてください」
空いていた左手で軽く揺さぶってみるが、彼女は唸るばかりで起きる気配が全くない。
「起きなさいっ!聖っ」
トドメは一番最後にやってきた蓉子で、見ていた誰もがさすがと思う綺麗な一撃だった。
「痛たた」
頭を押さえた彼女に、は先週と同じブラックの珈琲を差し出した。
「しかし、寝起きに美人さんの寝顔は、心臓に悪いですから止めて下さいね」
「えーっ、さんの上は結構寝心地が良かったんだけど……やめておきます、ハイ」
蓉子の輝くばかりの笑顔に、聖は誓約するように片手を上げる。
「寂しくはなかったですか?」
そんな彼女にくすりと笑った彼は、まるで子猫をあやすように彼女の髪を優しく撫でた。
「……うん、大丈夫」
「ならいいのですが。そういえば、六時間目は自習だったんですか?」
「そ、自習、自習」
「自主的な、でしょう?白薔薇様」
「江利子、うるさい」
少し不機嫌に言い放つ聖を見て、は志摩子へ微笑みかける。
「大変な人をお姉さんに持ちましたね」
「慣れましたから」
「志摩子までっ」
今日も薔薇の館から笑い声が絶えることはなかった。