その時は必死で気付かなくても、後になってわかる事もある。
あの喧々諤々の討論会より、一週間。
お昼休みに現れた薔薇の名を冠する三人の表情を見て、は大きくため息を吐いた。
「その様子だと、抜け穴をご存知だったんですね」
「まあ……気付いたのは、翌日だったんですが」
蓉子に綺麗な微笑みを向けられて、彼は困ったように彼女達の後ろにいる妹達に視線を移す。
「残念な事に、全員分を話す事になりましたので、諦めてください」
「どういうことですの?」
祥子に詰め寄られても、彼は困ったように笑っているだけだ。祐巳はそんな彼を見て、尊敬の念を新たにしていた。彼女だったら、あんな顔で詰め寄られたら、絶対に慌ててしまう自信がある。
「すみません。三人で一つと言うのを忘れてました」
「なんですって?」
眉を吊り上げた彼女の肩を蓉子が軽く叩いて先を続けた。
「つまり、私は祥子の話」
「で、私が志摩子の話」
「勿論、私は令の。ちゃんと三択してるでしょ?」
江利子は令を見上げて、ニヤリと笑った。
令ががっくりと肩を落とす一方、祥子は蓉子へ食って掛かる。
「そんなの屁理屈ですっ。お姉さまも、くだらないことをお聞きにならないでください」
「あら、くだらないなんて事はないわよ?学校以外の貴女の話を聞ける機会なんて滅多にないんですもの」
蓉子はにっこりと笑顔を祥子に向けておいて、にもう一度話しかける。
「聞かせてもらえますよね?」
嫌だなんて言わせてもらえそうにない雰囲気に、は天井を見上げて両手を上げた。
「さんっ」
祥子だけではない、令と志摩子も彼に詰め寄ったのだが。
「今回は私のミスです。貴女達の頼みをひとつずつ引き受けましょう。タイムリミットは24時間」
詰め寄ってきた三人への彼の言葉は、一瞬にして薔薇の館に沈黙を落とした。
「ただし、私に可能な事ですよ?」
「勝負してくださいっ」
最初に手を上げたのは、令だった。
「私は剣道をまともに習った事はありませんよ?」
「はい、お願いします。できれば、手加減なしで」
その言葉に、は彼女をじっと見つめる。令の瞳が本気なのを悟って、彼は小さくため息を吐いた。
「わかりました。ただし、勝負は貴女のお父さん立会いの下で。それでよろしいですか?」
「はい。では、父の予定を聞いておきます」
「お願いします」
そう言って、は祥子に視線を移す。
「付き合ってください、と言いたい所ですわね」
「いいですよ。お買い物ですか?」
爆弾発言をスルリと躱してしまうに、祥子は業とらしいほどのため息を吐いた。
この室内でわかっていないのは、頭の上にクエスチョンマークを飛ばしている目の前の青年だけだ。
「私だけの執事になっていただきます。よろしいですわね?」
これまた反論を許さないような言われ方である。
「これから話すことに対する意趣返しですか?」
「さあ?それで、出来ないのかしら?」
優雅に微笑んで見上げてくる祥子の頼みを、は微苦笑して受け入れた。
「貴女は何かありますか?」
満足げな笑顔で祥子が席に座ったのを見届けた青年は、少し困惑気味の志摩子に視線を向ける。
「さんが出来ることなら、何でもいいんですか?」
「ええ。約束します」
その確約に顔を綻ばせた彼女は、楽しみだと弾んだ声で彼に告げた。
「日曜日にミサに一緒に行ってもらえますか?」
「……ミサって言うと、あの教会に行ってお祈りしたり、賛美歌聴いたりする?」
少しのタイムラグの後、は確認するように志摩子に聞いてくる。
「ええ」
その不思議そうな表情に、志摩子の方が他にミサと呼ばれるものがあったかと考えてしまう。
「ここに初めて来た時にも言いましたが、私は神様を信じていませんよ?それでも?」
「はい」
「……わかりました。必ず行くと、お約束します」
そう答えたの顔を見て、江利子は不思議そうだ。
「なんだか、地味に志摩子の頼みが堪えているみたいなのだけれど」
「その質問には後でお答えするとして。とりあえず、お昼にしませんか?私はいいですが、皆さんは午後の授業があるでしょう?」
青年は時計を指差して、苦笑した。
彼のお弁当はいつの間にか三段になっていて、一段目はおかずとデザートが半々で入っている。
それとは別に、聖には必ず野菜か果物が一品渡されるのも、既に恒例となっていた。
「それで?」
もらった豆入りシーザーサラダにフォークを突き刺しながら、聖は正面に座るに声を掛ける。
「教会という場所に、あまりいい思い出がないだけです」
そう言った彼は、窓の外に視線を向けて、小さくため息を吐いた。
教会で何があったのだろうか。虚ろ気味の目に、聞きたいような聞きたくないような。
そんな視線を感じたのか、彼は窓の外から視線を戻した。
「子供の時の苦手意識は、なかなか消えないものですね」
「さん…」
「大丈夫。必ず行くと『約束』したでしょう?」
心配そうに見上げてくる志摩子の頭に、はその大きな手を乗せた。
「約束とは必ず守るもの。私はそう教わりました」
「良い言葉ね」
江利子はの言葉に何やら意味ありげに頷いている。
「ますます放課後が待ち遠しいな」
「約束ですもの。本当に楽しみ」
聖と蓉子も笑っている。
青年はもう一度天井を見上げて両手を上げた。