「祥子、遅いなぁ。まさか、逃げたとか?」
放課後、未だやってこない最後の一人に文句を言って、聖は入り口のビスケット扉を見つめた。
「それはありえませんよ」
紅茶の蒸らし時間を計りながら、二人分の珈琲を用意していたは彼女の言葉に笑って告げる。
「その言い方だと、随分と自信があるみたい」
祥子を理解していると言わんばかりの台詞に、江利子だけでなく他の者も少し眉を寄せた。
「どうしてか、聞いても?」
「そういう蓉子さんも、理由がわかってらっしゃるようですが?」
蓉子に視線を向けて、はもう一度笑う。
「あの人が反撃もせずに、ただ逃げ出すなんて事がある筈がない。例え負けるとわかっていてもね。そうでしょう?」
「ええ、全くもってその通りね」
自信満々の彼の言葉に、蓉子は苦笑するしかない。
「あの人は負けず嫌いですからね」
肩を大げさに竦めた彼は、淹れ終わった紅茶を配っていく。
「誰が、負けず嫌いですって?」
「ああ、祥子さん。遅かったですね、皆さんお待ちかねですよ」
最後に、漸く現れた彼女の席に紅茶の入ったカップを置いて、は文句の付け所のない優雅な一礼をしてみせた。
「紅茶くらいでは騙されなくてよ?」
そう言いつつ、紅茶に手を伸ばして口元に微笑みを浮かべるのは、の淹れる紅茶が彼女好みだからだ。
「そうは言われても、貴女に初めて会って以来、随分と負けず嫌いを見せてもらいましたからね」
自分の珈琲を手に、も席について祥子と初めて会った時の事を話し始めた。
「、少しここで待っていなさい」
そう保護者に言われて、は壁際に寄って待つ。
周りを見回せば、キラキラと目が痛くなりそうな世界が広がっていて、彼はこれからの事を考えて気が滅入った。
何より、彼に突き刺さってくる視線の多さ。吐き気がしそうだ。
床に視線を落として、関係の無いことを考えよう。そう思ったの前で、誰かが足を止めた。
顔を上げれば、黒髪の美少女が立っていて、は何だろうと首を傾げる。
知らぬ間に、何か失礼なことを仕出かしただろうか。そう思うほど彼女の表情は硬かったから。
「レモネードをお願いできます?」
「は?」
だから、彼女の口から出た言葉に、青年は呆気に取られてしまった。
「ありませんの?」
「……少々お待ちください、お嬢様」
眉をしかめた彼女には優雅に一礼してみせた。
どうやら、会場のスタッフと勘違いされたようだ。保護者たちとは違って『極普通』の自分なら仕方が無いと、青年は大人しく飲み物の調達に出掛けた。
スタッフ達が出入りしている場所へ行き、レモネードと自分用にアイスティを用意してもらって、手近にあった銀色のトレーに載せて運ぶ。それは誰が見ても優秀な執事のようだった。
先ほどの場所に戻れば、待っていろと言った彼の保護者と、先ほどの彼女が楽しげに談笑していた。
「お話中、申し訳ありません。お待たせしました、どうぞ」
一言断りを入れて、レモネードを彼女へ差し出す。
「飲み物を取りに行っていたんですか。どこへ行ったのかと思いましたよ」
その青年の頭を優しく撫でたのは彼の保護者で、目の前の彼女が驚いているのが空気でわかる。
「女性にお願いされたなら、そちらを優先、でしょう?」
もう一つのグラスを手にとって、少し高い位置にある保護者の目を見上げた。
「それで、紹介してもらえないんですか?」
「ん?まだ自己紹介してなかったのか?仕方ないな」
彼の保護者は世話が焼けるのが嬉しいと言わんばかりの笑顔で、を目の前の少女に紹介してくれた……。
「酷いと思いませんか?着慣れないとはいえ、一張羅を着ていったというのに」
カップに残っていた最後の一口を飲み干し、は業とらしく肩を竦めた。
「あれは、貴方が否定なさらないのが悪いのではなくて?」
彼の隣に座っている祥子は、微かに頬を染めている。その時の失態を思い出して、恥ずかしいのだろう。
「そうですか?」
「何か違って?」
まるで非は彼の方にあるのだといわんばかりの祥子の台詞に、は口元に笑みを浮かべた。
「まあ、貴女には随分と助けられているので、『執事』とか『召使い』と呼ばれても構わないんですが」
の言葉に、祥子は訝しげな視線を向ける。
「何なの?それは」
「『いい』性格をされた方々が付けた、私のあだ名です」
「なんですってっ!」
祥子は椅子を鳴らして立ち上がった。
それは彼らが、目の前の優しい青年を格下に見ている証。知らなかったでは、すませたくない。
それなのに、当の本人は嬉しそうに彼女を見上げていて。
「怒った顔も綺麗なのは、少しズルイなぁ」
などと、怒ればいいのか、喜べばいいのか、困る言葉を口にしている。
「この程度のことは、軽く流しておけばいいです。どうせ私の保護者たちを、本気で敵に回す度胸など持ち合わせている人間が、あの連中の中に居る訳じゃないですし」
「さんっ!」
「いいんですよ。私には、貴女がいるから」
青年はその優しい瞳で、怒っている祥子を見つめ返した。
―――絶句。全員が、その告白に似た一言に声を無くした。
何度、この青年の何気ない心からの言葉で、この部屋に沈黙が落ちたか数えるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
「ずっとお礼を言いたかった。ありがとう、祥子さん。そして、これからもどうぞよろしく」
決定的だった。
微かに染まっていた祥子の頬は、もう耳まで赤い。
長い間伝えたかった事を言えた本人だけが、満足そうに頷いて飲み物のお代わりを用意しに行ってしまう。
「殺し文句よね。今の」
「本当の事を言ったまで、なんだろうでしょうけど」
不機嫌そうな江利子の呟きと、これまた不機嫌そうな蓉子の声が隣から聞こえてくる。
「さすが『天然』だよね」
苦笑いする聖の言葉に、二人は揃ってため息を吐く。
きっと彼は、自分の微笑みと優しい言葉が、どんな効果をもたらすのか理解していないのだ。