時々、涙が出そうです

「次はどちらの話になさいますか?」
珈琲を淹れなおしたは、席へ戻って江利子と聖に視線を向けた。
「どうする、聖?」
「令が先でいいよ。志摩子との話は、最後の楽しみにさせてもらうから」
二人の会話に、と令は顔を見合わせ苦笑する。
「では、次は令さんの話ということですね」
は苦笑を浮かべたまま、話し始めた。
「あの出会いは、まさに衝撃でしたよ。場所が場所だったので」

その瞬間、は身体が固まったのを覚えている。
いつものように遊びに来た道場の師範である男と一勝負終えた後の事だ。
汗まみれの身体をさっぱりさせて来いと、男がしきりに勧める檜風呂に入っていく事になった。
木の香りと程よいお湯に漬かって、気が緩んでいたとしか思えない。
ズボンを穿き終え、改めてタオルに手を伸ばした瞬間。
ガラリと扉が開いて視線の先に、髪の短い一見少年のように見える女の子が現れた。
「……コンニチワ」
あと十数秒、扉が開くのが早かったら、やばかった。
上半身裸という状況で、彼はそれだけを思った。

そこまで、話した途端。
さんっ!?」
「令っ!?」
「令ちゃん!?」
三種類の悲鳴にも似た叫びで、の話は切断された。
話を途中で強制停止させられた本人は、目を丸くして驚いている。
「出会ったのが、洗面所!?」
聖は思わずに詰め寄っていた。
「そうなりますね。お嬢さんが居るのは聞いていたんですが、まさかあんな場所で出会うとは思っていなかったので、驚いて十数秒は動けませんでした」
さんは、令ちゃんが女の子だって直ぐにわかったんですか?」
そんな彼ののんびりとした言葉に、さっきまで令を睨んでいた由乃がへ詰め寄った。
「相手が男なら固まることもありませんよ。相手が女性で、場所が洗面所という条件だからこそ、あの瞬間は血の気が引きました。立場が逆ではなかった事を、心の底から感謝しましたね。逆だったら、半死半生を身をもって体験したこと、疑いようもありませんから」
乾いた笑いと零して、彼は話を続けた。
「その後しばらく、令さんが口を聞いてくれなくて、ずっと嫌われていると思っていたんです。やっぱり、初対面で上半身裸はまずかったかなぁって」
照れくさそうに話すの言葉に、令が勢いよく首を振った。
「そんなことないですっ」
「ええ。いつも冷たいお茶とタオル、ありがとうございます」
それに気付いたのは、彼女の父親との勝負が終わった後だった。いつの間にか用意されるようになったそれが彼女の手によるものだと知った時、は思わず微笑んでいたものだ。
「ああいう気配りが出来るのは、やはり素晴らしいですね」
に微笑みかけられて真っ赤になってしまった令に、全く気付くことなく青年は、隣に座る蓉子が置いたカップを手元へ引き寄せた。
「男では、ああは行きません」
空になったそのカップに、手際よく紅茶を注ぎながら言われても。
さり気なく砂糖とミルクが、蓉子の方へと寄せられていたりするし。
「説得力に欠ける台詞って、きっとこういう事を言うんだね」
「そうね」
がポットを持って流しへ向かった後、ポツリと呟かれた祐巳の言葉に由乃が重々しく頷いた。
「それで、令?」
「なんでしょうか、お姉さま」
好奇心に目を輝かせている江利子に、令はやっぱり来るかとため息を吐いた。
「決まってるでしょ。さんの上半身の話」
聖がニヤリと笑い、その隣の蓉子も止める様子は見られない。
「どうだったの?令ちゃん」
「……由乃まで……」
令はもう一度ため息を吐いて、その時の事を思い出した。

ちょっと手を洗おうと扉を開けた彼女の視線の先に、背の高い一人の青年が上半身裸という状況で立っていた。
何か武道をやっているのだろうか。彼の背中は無駄なものなどないほど、鍛え上げられてしなやかだ。
その光景に、令の思考は少しの間停止してしまった。
「……コンニチワ」
相手も驚いた様子で、笑顔というには引きつった顔で、青年は彼女に声を掛ける。
「もう少しで終わりますので、待ってもらってもいいですか?」
「あ、はい」
「ありがとうございます」
彼は置いてあったシャツを頭から被って服を調えると、何か思いついたような表情で令に微笑みを向ける。
「もしかして、貴女が令さん?」
「え?あ、はい」
自分の名前を知っているということは、父の知り合いだろうか。
「初めまして、といいます」
「貴方が……。父からよく伺っています」
令は目の前の青年を改めて見つめた。
父曰く、『外見からは想像できないほどの強さ』
確かにと、令は内心で頷いていた。父に匹敵する武芸者には全くみえない。
「これからも時々遊びに来ますので、どうぞよろしく」
そんな彼が笑って差し出した手を、令も微笑んで握り返した。

「ちなみに、その時の令さんは、とても可愛かったです」
いつの間にか戻ってきていたが、報告するように江利子に話している。
「それ、誰にでも言ってるんじゃない?」
聖の言葉がどこか不機嫌そうになるのは、仕方ないだろう。
「そんな事はありません。何があろうと、男には『可愛い』なんて言いません」
少し自慢するように、青年は胸を張っているが。
たぶん、いや絶対そういう問題じゃないと思う。青年を除く全員が心の中で思った。

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Posted: 2009.01.03 マリア様がみてる. / PageTOP