その日、練習を終えて会社へ戻ってきた彼女が出会ったのは、優しい微笑を浮かべた青年だった。
「初めまして」
そう笑った彼は、今日この街に引っ越してきたという。
歳は少し上だろうか。
柔らかそうな黒髪に、優しそうな蒼い瞳が印象的な人。
ARIAカンパニーでの夕食の後。
甘えるアリア社長を抱き上げていた彼は、アリシアの視線に気づいて、彼女へ微笑みかける。
「どうかしましたか?」
「い、いえ。さんは、どういったお仕事を?」
食後のお茶を飲みながら、アリシアは隣に座る青年に尋ねた。
「ああ、仕事はしてません」
「え?」
「お金は地球でもう一生暮らせるくらいの金額は稼いでしまったんです」
ちゃんと真っ当なお金ですよ?と笑う青年を、アリシアはマジマジと見つめてしまう。
「双子の妹も結婚してしまったし。それで心置きなく自分探しの旅にここへやってきたんです」
アリア社長の猫パンチを手のひらに受けながら、は笑っていた。
「ああ、そうだ。ゴンドラって、どこに行けば買えますか?」
「ゴンドラを買われるんですか?」
「はい。ヴェネツィアといえば、ゴンドラだと思って、地球でシミュレーションなんですが猛練習してきましたから」
ぐっと拳を握る彼が、初めて年相応に見えた瞬間だった。
「アリシア。明日、練習がてらさんをヴェネツィア案内してあげてはどうかしら?」
「グランマ?」
突然の提案にアリシアは、目を丸くする。
「お願いしてもよろしいですか?その、大体の地理を覚えたいので……」
「こちらこそお願いします」
のお願いに、アリシアも笑って答えた。
「よかった。一応、地図は買ったんですけれど。見ただけで頭がクラクラしそうでしたから」
そう言って笑った彼に、翌日驚かされることになるのだが。
「アリシア、今日も来てやったぞ!」
「おはよう、アリシアちゃん」
今日も半人前同士練習をしようと、晃とアテナは自分のゴンドラと共に、ARIAカンパニーを訪れた。
「晃ちゃん、アテナちゃん、おはよう」
すぐに出てきたアリシアの隣に、初めて見る黒髪の青年が立っている事に、晃とアテナは顔を見合わせ首を傾げる。
「なんだ?お前」
「初めまして。昨日、そこに引っ越してきたと言います」
背の高い晃やアテナでも、彼の目を見るには見上げてしまう。
「今日はこの子を訓練がてらネオ・ヴェネツィアを案内してあげてくれないかしら?」
の背中からグランマが顔を出した。
彼女に頼まれては、二人も嫌とはいえない。何より、実践訓練にもなる。
「ああ、そうだわ。出かける前に、貴方がどのくらいゴンドラを操れるのか見せてもらえる?」
「……え?買って練習をしようと思っていたんですけど」
「何事もやってみないと。予備のゴンドラを出しておいてよかったわ」
はい、とオールを渡されてしまった彼を、アリシア達は興味深々で見つめる。
グランマをじーっと見つめていただったが、根負けしたのか、小さくため息を吐いて、ゴンドラの上に立った。
「あの杭を回って戻ってきてね」
「はい。・、いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
初めて乗るゴンドラで、完全自動化された地球出身。
どこまで漕げるか見ものだと、晃は思っていた。
水に落ちたりしないかと、アテナは心配していた。
教えてあげられればと嬉しいと、アリシアは考えていた。
けれど、4人と一匹は目を丸くすることになる。
力強く、それでいて優雅に、ゴンドラは水面に綺麗な轍を描きだす。
杭をターンするのも、最小限の半径で回ってきた。
「どうですかー?及第点ですか?」
ひょいっとゴンドラから降りてきたに、グランマは歩み寄り、にっこり笑った。
「手のひらを見せてもらってもいいかしら?」
「手のひら、ですか?どうぞ」
その手のひらは、肉刺が何度もつぶれ、手の皮が厚くなった、修練を重ねた手だった。
「頑張ったのね」
その手を優しく包み込んで、グランマはふんわりと微笑んだ。
「はい。それはもう。ずっと、この空と海の間に来たかったんです」
「手袋とかしなかったの?」
は、グランマの言葉に目を丸くした後、そっと目をそらした。
「その顔は思いつかなかったってことか?」
「そ、その時は、覚えるだけでいっぱいいっぱいだったんですっ」
晃の一言に、は反論する。その顔は少し赤く染まっていた。
「でも、頑張っただけの成果はあったわね」
「では?」
「合格よ。このまま、アリシア達と水先案内人を目指してみない?」
グランマはちょっと悪戯っぽく笑って、を見上げた。
「火星初の男の水先案内人?」
「需要なさそうですね~」
アテナの呟きに、は朗らかな笑顔になった。
「それより、そろそろ行きましょう。まずはこの辺りでお勧め。ランチの美味しいお店に案内してもらえますか?」
「そうね。頑張ってらっしゃい」
「はい。どうぞ、お客様」
こうして、グランマとアリア社長に見送られた黒髪の青年は、図らずも未来の三大妖精たちの初めてのお客様になったのだ。