[日常、あるいは平穏な日々 3]

「……どうして、水先案内人さんが三人もいるのに、私が漕いでいるんでしょうか」
久しぶりに三人の漕ぐ姿を見られると思ったのにと嘆きながらも、は晃から言い渡された場所へと向かって舟を走らせていた。
「せっかくの休みなんだぞ?こういう日くらいが漕いでもいいじゃないか」
「そうなんですが……っと。この水路、細くないですか?こんな広いところにあるのに」
軽やかに櫂を操り、反対側からやってきた船を躱して、は不思議そうに首を傾げた。
広い広い草原や畑の間を、水をたたえた路が線を描くようにずっと続いている。
「ちゃんと理由があるの。着いたら、君の好きな舟謳を唄ってあげるから」
「頑張ります」
アテナの提案に、は俄然張り切ってオールを握った。
そんな青年の様子に、三人は顔を見合わせて笑い合う。

春麗らかな、一日の始まりだった。

「いい天気になってよかったですね」
目の前に広がる青い空、どこまでも続く緑の大地。
ぽかぽかの陽気も、吹き渡る風も、もう地球では本物を感じることはできない。
「やっぱり、ここへ来てよかった」
がそう言うたびに、アリシア達は顔を見合わせて微笑みあう。
地球に住んでいた彼が、あまり幸せでなかったことは、会話の時々で感じられる。
一番の問題は、本人がそれを不幸と感じていなかったりすることなのだけれども。
でも、その彼が、幸せそうに笑っているから。
その事が、何より嬉しいのだ。

「あれ?行き止まり?」
は、大きな扉の前で舟を静かに止めた。
「これが、水上エレベーター」
「ああ、これが。……なるほど。それで、この幅なんですね」
晃の言った単語で、彼は今まで通ってきた細い水路の理由を悟った。
「そう。このエレベーターの幅で作られているからなの」
「今、降りてきてるみたいだから、もう少しかかるみたい」
アテナの言葉に、も櫂を置いて、舟に座った。
「随分とのんびりとした施設なんですね」
「まあ、運が悪いと一時間くらい待つことになるな」
大きな扉を見上げた青年の言葉に、晃は微苦笑を浮かべる。
「そんなに? 地球だったら、絶対に文句が出ますね」
地球育ちの青年は、朗らかに笑って聞こえてくる水の音に耳をすませた。

しばらくして扉が開き、中から真っ白なゴンドラが現れる。
乗っていた家族連れに青年が笑顔で軽く手を振れば、小さな女の子と男の子が手を振り返してくれる。
彼らと入れ替わりでその扉の中に入れば、四方を壁に囲まれて再び扉が閉まり、滝のように水が落ちてきた。
「まるで水攻めだ」
一杯になって上に着くまでしばらく時間がかかる。
は用意していたお茶のポットを取り出した。
「アクアはこういう時間がとても似合うところですね」
ちょっと熱めの紅茶を配って、は優しく微笑んだ。
「うふふ。でも、それであのゴンドラを見送った訳じゃないでしょう?」
アリシアの言葉に、青年は目を丸くした後、微苦笑を浮かべた。
「どうして、わかったんです?」
「何か羨ましそうだったからな」
断言するように言う晃の隣で、アテナがどうして?と真っ直ぐに彼を見つめている。
「そうですね、少し羨ましいです。あの白いゴンドラは、君たちしか操れないから」
そう言ったは、黒いゴンドラを軽く手のひらで叩いて、優しく目を細めた。
「でも、私の相棒はこいつですから。いつか、火送りするまで、ずっと一緒にいるつもりです」
「ゴンドラの手入れ方法もしっかり覚えたものね」
「……意外と手のかかる子でした」
アリシアの言葉に、彼は苦笑を浮かべる。
地球にいた時には、わからなかったことが山ほどあった。
毎朝の手入れと、季節ごとに行うメンテナンス。
ゴンドラを買った次の日に底に溜まった水を見て、アリアカンパニーへ駆け込んだ事は、今となってはいい思い出だ。
「さて、目的地まであと少し。頑張るとしますか」
は再び櫂を手に取った。

「あそこを抜けたら、目的地よ」
「よかった。お昼には間に合いましたね」
再び見えてきた水上エレベーターを指すアリシアの言葉に、青年は空にある太陽を見上げた。
「アテナご要望の品も結構上手くできたと思いますよ。期待していてください」
「鶏のトマト煮……」
アテナはきっと美味しいだろう彼の料理を考えて、ふにゃりと微笑んだ。
「さぁて、到着だー」
ゆっくりと見えてくる景色に心が躍るのは、きっとここで体験する全てが初めてだらけだからだと思う。
ゴンドラが上まで上がりきった時、ざっ、と風が音を立てた。そう感じた。

「うわぁっ……」
目の前に広がる景色に、感嘆の声しか出てこない。
ネオ・ヴェネツィアが一望できるその光景に、の視線は釘付けにされた。
「あらあら。よかった。喜んでもらえて」
「やっぱり、ここにしてよかったね」
アリシアの言葉に、アテナはふにゃりと微笑んだ。
「でも、そろそろ、その間の抜けた顔は禁止だな」
大きく口を開けたまま、景色に見入っているに、晃は微苦笑を浮かべる。
「え?あ、ああっすみません」
晃の言葉に、漸く戻ってきたらしい青年は、照れくさそうに小さく笑った。
「水先案内人の間では、ここは希望の丘って呼ばれてるの」
「希望の丘?」
アリシアの言葉に、は首を傾げた。
確かに、絶景だが『希望』とはどういうことだろうか。
「このコースは両手袋から片手袋への昇格試験に使われるコースなんだ」
「だから、この景色は特別なの」
晃とアテナの説明を聞いて、はもう一度ネオ・ヴェネツィアを眺める。
「……なるほど」
優しく景色を見つめて、彼は一つ頷いた。
「この景色は、きっとご褒美ですね」
「ちなみに、両手袋には内緒にしておくのが、ネオ・ヴェネツィアの伝統行事でな」
何故、彼女達がここをピクニックの場所に選んだのか、は少しわかった気がする。
「ここへ連れてきてくれて、ありがとう」
日常に彼女達がいてくれる事が、何より幸せだと思って。
だから、彼はこの平穏な日々を愛してやまない。

「さあ、そろそろお昼にしましょうか」
もう一度、ネオ・ヴェネツィアを見た青年は、三人を振り返って満面の笑顔を振りまく。
「ぷいにゅー」
真っ先に同意したアリア社長は、ゴンドラから飛び降りて芝生を駆け出した。
「いい天気になって、よかったですねー」
ゴンドラを泊めて、は荷物を持って歩き出す。
その彼の背中を、三人は顔を見合わせて笑いあうと走って追いかけた。

彼らの暮らす街を一望できる、日当たりのよい芝生の上にシートを広げて、特製のお弁当を開けば。
楽しい宴のはじまり、はじまり―――

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Posted: 2009.01.03 ARIA.. / PageTOP