明るくなっていく空の下。
曹操軍とは比べ物にならないほど、緩慢に劉備軍は進んでいた。
大半が民間人で、兵士達も義勇兵程度の練度では仕方ないかもしれないが。
「関羽殿。少しよろしいですか?」
そんな中、は内心はともかく外面は穏やかに微笑んで、劉備軍の知り合いに声を掛けた。
というより、今後の予定などを話し合うために声を掛けざるを得ない。
「様……どうされました?」
対する関羽の表情は強ばっている。
「今後の予定を話したいと思うのですが……。えっと、俺と話したくないなら、軍師さんとだけ話しますけど?」
やはり嫌われたかと苦笑を浮かべながらも、やる事はやっておかないと、間違いなく後で困るのは彼なのだ。
「す、すみません。別に嫌いになったとか、そういう訳では……」
申し訳なさそうな青年の表情に、関羽の方が慌ててしまう。
「そうですか?良かった。美人に嫌われるなんて、男としては本気で遠慮したいですからね」
安堵のため息を吐く青年の言葉に、関羽は余計にあたふたと困ってしまう。
「しゅ、朱里を呼んで参ります!」
逃げるように彼の前を後にする関羽の様子に、は小さく首を傾げて、後ろにいた稟と霞を振り返る。
「怒らせた……かな?」
どうしようと困った顔の彼に、二人が心の底からため息を吐いたのは言うまでもない。
「諸葛殿。単刀直入に聞くが、手持ち食料の総量は?」
関羽と共にやってきた小さな軍師の前に立った黒髪の青年は、余計な事など一切聞かなかった。
「通り抜けるまで保つのかという事ですね?」
「ああ。その通りだ。足りるのか?」
「正直、今すぐにでも、どこかで買い足す必要があります」
「稟、手配を頼む。ちなみに、手持ちの金はどのくらいだ?」
無料で提供するという発想は全くない。
「……質より量の方向で頼む」
教えてもらった金額に、手配するものをまとめている稟へとはため息と共に付け加える。
「わけてはいただけないんですね」
「【タダより高いものはない】。俺の国の言葉だが、覚えておいて損はないぞ」
少しばかり恨めしそうな表情の関羽に、は小さく笑った。
「つい先ほど、その意味は思い知ったばかりだと思ったけど?」
通行料を無料にする代わり、いつか国ごと頂く。そう彼の王様は彼女達に宣言した。まったくもって、タダより高いものはないのだ。
「うう……」
手持ちの金額と今後の見通しとを考えて、小さな軍師殿が眉間に皺を寄せる。
「何か売れそうなものはないかな?交易くらい考えていたんだろう?」
そんな彼女には困ったように話しかける。きっとこういうところが、彼の甘さなのだと自覚しているが、仕方ないとも思っていた。
「ええ。でも、塩と干物くらいです。まだ質もそんなには……」
「とりあえず見せてもらえるか?俺個人が買ってもいい」
「個人……で、ですか?」
「これでも屋の主人だぞ?金ならあるさ。……是非一度、故郷で言ってみたい言葉だな」
は自分が口にした言葉に、思わず苦笑してしまう。
「それに、内陸では塩や魚は貴重品さ」
それならばと案内された先で、は質のあまり良くない藻塩と小魚の丸干しを見せられた。
「ふむ……」
踊りだしたい内心を押し隠して、黒髪の青年は袋の中身を取り出す。
「稟。これ幾らになるかな」
今ひとつ、物価価値がよくわからないは、側にいる稟に声を掛けた。
「……そうですね。この質のものなら」
塩をひと舐め、稟はに適正価格を教えてくれる。諸葛亮の表情を見るに、問題はない値段らしい。
「ただ質は落ちますので、軍費で買うのは無理かと。魚の方は雑魚ですし、金にはならないでしょう」
藻塩ゆえに灰の割合が高いらしい。
「そうか。じゃあ、俺が買う。こっちの魚もつけてくれるなら、一割り増しで」
「……いいんですか?」
正直、彼女達の感覚では、彼の申し出は破格に近い。
「おう。塩は精製し直ればいいだけだしな」
「こちらとしては、是非お願いしたいところですが……本当によろしいのですか?」
「二言はない。ちょっと待っていろ。今、代金を持ってくる」
取引は無事成立。は自分の天幕近くに買い取ったものをおいて、笑み崩れる自分を抑えられなかった。
「大丈夫ですか?殿」
「む。地味に酷いな、稟。料理の試作をしようと思ったんだが、霞と二人で食べるぞ?」
「失言をお詫びします」
「素直でよろしい。やっと手に入れられた海産物。さっさと彼らを送り届けて帰らないと、華琳に会うまでに俺が完食しそうだ」
これを?と不審そうな視線を小魚の丸干しに向ける稟に、は楽しげに笑ってみせる。
「俺の故郷は海に囲まれた島国だったからな。今日の昼飯を楽しみにしててくれ」
この日の昼食は簡単な雑炊だったにも関わらず、一滴残さず幹部三人の胃袋に納まったことだけ記載しておく。
午後からは劉備軍の編成など確認にいっていた者からの報告を霞と稟と共に聞く。
「……なぁ。これ、本当なんか?」
「はっ、この目で確認致しました」
霞の問いかけに、偵察兵の一人がはっきりと応える。
「よくも、まあ、これで袁家を相手に出来たもんだ」
上空からの視点で軽く確認はしていたが、まさかこれほどとは。は他の二人と顔を見合わせてしまう。
「まったくですね。我が軍の新兵でも一撃で粉砕できてしまいますね」
兵士も馬も疲弊し、怪我人を大量に連れている上、民の中にも子供や年寄、病人がいる。その数は劉備軍の何と半数以上を占めていた。
「いつになったら、向こう側に着けるんやろうな?」
「まあ、これからそれを考えよう。お疲れ様、今日はありがとう。助かったよ」
霞と稟にそう言うと、は休めの姿勢で立っている偵察部隊の全員を見回し労いの言葉を掛ける。
「今日はもう休んでくれ。明日も忙しいだろうが、よろしく頼む」
「勿体無いお言葉です。では、我等はこれにて、失礼いたします」
隊長が返答すると、全員が敬礼を行い、彼らは天幕を後にしていった。
「さてと、どうするつもりや?袁家のあほうどもの事を考えると、あんまり時間を掛けられんで?」
「俺としては、民衆に対して人気取りを行いたいと考えるけど?」
ニヤリと笑った青年の考えを聞いた霞と稟は小さく笑ってしまった。
「容赦ないなぁ」
「悪辣と言ってもいいでしょう」
「誉め言葉と思っておこう。で、二人の意見は?」
勿論、彼女達二人に反対意見はなかった。
次の日。
「……一応、尋ねるが、本気で反対側に抜ける気あるんだよな?」
「勿論です!」
ぐっと両手を握り締めて答える劉備をチラリと見た後、現実的な答えを求めて、諸葛亮に視線を落とす。
「怪我人も病人もおりますので、これ以上の速度は難しいです」
「そうか。では、俺達が強制移動させても文句はないな?」
「そ、そんなっ!」
劉備の悲鳴のような声は無視して、民衆の前に立っていた青年は後ろを振り返る。
そこには、彼に従う者達が整然と並んでいた。
「これより、救助訓練を開始する。全軍、用意開始!」
彼の号令で、騎兵は馬を降り、全兵士達が輜重部隊より背負える荷物を受け取っていく。
空いた輜重部隊の荷車には、人が横になれるようにと飼葉用の藁が敷かれたり、飲料水の樽等が用意される。
「よし。準備が整ったものから人の移動を始めろ!優先順位はわかっているな」
「はっ!病人怪我人は治療を開始しますが、よろしいですか?」
「俺に確認するまでもない。急げっ!」
「はっ!」
彼らは民間人の間を動き回り、怪我人や病人は荷車の方へ案内される。
案内された後、症状の重度具合に合わせて、従軍医師達が診察を始めていく。
空いた騎馬には、老人や女子供を優先で乗せて、騎士達が厭いもせず手綱を引いた。
その整然とした様子に劉備軍の者たちは言葉もない。
「霞、稟、俺も治療部隊を手伝ってくる。後は任せる」
「承知や」
「お任せを」
はもう用はないとばかりに、劉備軍の面々に背を向けた。
彼女達が何を言おうと、きっと稟が何とかしてくれる。なんせ劉備が至上命題に掲げている『民』の為に、彼らは行動していたからだ。劉備を言いくるめれば、不承不承ながらも誰も彼らの邪魔はしないだろう事が、簡単に予想できた。
必要な時にだけ、必要なものを利用する。
稟に悪辣と評されても仕方がないだろうと、黒髪の青年は馬の上で小さく頷いた。
「状況は?」
医療用指揮車に設定された荷車に近寄り、人員や物資の割り当てを行っている中の人間に声を掛けた。
「酷いですね。今、汚れた包帯を交代していますが、手当ても止血程度で杜撰なもんです」
彼の姿を認め、全員が軽く一礼をするが、手を止めることはない。医療部隊を任せている女性がに報告を行う。
「仕方ないな。次の街に着いたら、ちゃんとした治療を行うとしよう。風呂にも入れてやりたいしな。……子供達の様子を見たか?」
「はっ、……わが子にあのような目はさせたくありません」
子供の絶望に染まり、恐怖に怯える表情など普通は見たいとは思わないだろう。見たいなどと目を輝かせる者には、『変態』のレッテルを貼り付けた上、生まれてきてごめんなさいと自分から言い出すよう仕向けてやりたい。
「子供は、明日に希望を持つべきだからな。俺に手伝える事はあるか?」
「申し訳ありませんが、妊婦達の様子を見てきてもらえませんか?」
「妊婦がいるのか!?」
もう少しで叫びそうになる声を辛うじて抑えた。
「はい。あまり状態も良くない様子でして……」
「まさか、新生児もいたりするのか?」
彼女の表情で全てを悟れた自分が憎い。
「そっちは任せておけ。誰一人、死なせない」
「お願いいたします。逆に怪我人は重傷者はおりませんので……」
「……ここへ来る前に脱落したと見るべきなんだろうな。わかった。何かあれば呼んでくれ」
「はっ。お任せを」
彼女に手を振っては馬首を翻した。
「お、ここかな」
は目的の荷車へ馬を寄せた。
その荷車だけ、床に藁が敷き詰められた上に布がしかれたり、背もたれ用に小麦の袋が置かれたりと優遇されている。
「貴方は?」
「こちらの様子を見てこいと言われた者だよ。そういう貴女は?」
「私は医療補助官です。こちらは妊婦や乳飲み子を抱えた者達が中心になっています」
医療補助官とは、医師だけでは足りない場合もあるので、簡単な医療行為を覚えた医師を手伝う資格を与えられた兵士の事だ。資格を持つ者には資格手当てが出るため、兵士達は定期的に行われる資格試験に向け勉強も頑張っていたりする。
「そうか。で、この子達は?」
は荷車の後ろをちょこちょこと着いてくる二人の子供に笑いかけた。
「す、すみません。私の子供で……」
荷車の端に座っていた女性が、彼を見上げて身重にも関わらず頭を下げようとする。
「そんなことしなくていい!お母さんは子供を最優先するもんだ」
彼女の様子に慌てたのは、千里眼と称えられる青年の方だ。
「後ろに子供達を乗せる馬がいるのに、どうしてかと思っただけだよ。お母さんがいるんなら当然だな」
は馬を下りると、彼女の子供だという男の子と女の子を乗ってきた馬に乗せてやる。
「……馬に乗せて?」
「ああ、そうだよ。今、曹操軍で馬に乗っているのは伝令兵か先陣を切る者だけだ」
自身は荷車に上がって、安心させるように女性たちに笑いかけた。
「そ、曹操軍……!?」
「そんなに怯えなくても大丈夫。別に捕って食おうなんて思ってないから。君達は元気な赤ん坊を産む事、元気な子供を育てる事。それだけを考えていればいい。少なくともこの領内にいる間は、俺達が安全を保障する」
どんだけ覇王様は怖がられているんだと内心で思いつつ、は力強く約束する。
「本当に……?」
「信じてもらえないのも無理はない。しばらくは一緒に行動するんだ。よろしく頼む」
不審そうな彼女たちには苦笑するしかない。今まで国や軍が民衆にしてきた事を思えば、これでもましな方だと思う。
「じゃあ、体調を確認させてくれ」
は手に触れて脈を取る振りをして、一人ずつスキャンしていく。
「……よし、全員若干の栄養不足になっている以外は健康体だな。後で食料配布があるから、しっかり食べてくれ。ああ、勿論子供達にも配布されるから、君達もしっかり食え」
馬に乗って、母親を心配そうに見つめる子供達の頭を軽く撫でてやる。
「移動開始っ!」
隊列の先頭から伝令兵が声を上げながら、走り抜けていく。
隊列の順番は劉備軍が先頭を進み、民間人の周辺を曹操軍が守るように陣形を組んでいた。
勿論、先頭の劉備軍がろくでもない事をしないよう、騎馬小隊が巡回をしている。
「さて、妊婦さんたちは足を伸ばして楽な姿勢をとって。寒くないように、毛布を掛けてな。座るのがつらいなら、横になっていいから」
そんな風に甲斐甲斐しく世話をする千里眼の青年の元、訓練の名を借りた『民衆の好感度を上げよう作戦』は、その一歩を踏み出した。
今回、保護の対象になったのは、民衆と怪我をした兵士である。
毅然とした態度で民衆に対してきちんとした保護や手当てを行い、横柄な態度の者は取り締まる。
ちなみに何処にでも勘違いした馬鹿は居るもので。
馬に乗せろと喚いた何処かの村長やその息子などは、騎馬兵に一瞥されただけでスゴスゴと引き下がったと後から報告を受けた。
次に何か問題を起こせば、劉備軍の方へ熨斗をつけてくれてやれと言ってある。
領内を通過する間に、三割程度でも定住を希望してくれると嬉しいなぁと、漸くゆっくりとながら本格的に動き始めた隊列で、は漸く一息吐いた。
金ならある。……是非、一度言ってみたい台詞ですねー。
そして、漸くちょっとだけですが手に入れられた海産物ー!!魚介の出汁を満喫している主人公。帰るまでに使い切ったりしたら、覇王様に軽く無理難題を押し付けられそうです(笑)
後2・3話はこっち側かなーと思いつつ、留守番組の話も書きたいなと思ってます。
『待て』状態の凪や恋の様子とか……どこか間に挟むだけでも。
曹操軍は目指せ海兵隊&自衛隊です(笑)
コメント by くろすけ。 — 2012/03/24 @ 21:01
諒の工房に残っているであろう食料(一度食べたことのあるものやお菓子など)がピンチですね。
この世界では諒の作る食べ物に勝るものはないわけですし、恋辺りが耐えられるか心配かな。
最終的には真田屋で大量購入とかしそうですね。
留守番組みが毎日代わる代わる真田屋に並んでいそうです。
コメント by エクシア — 2012/03/25 @ 15:27
>エクシア様
大丈夫です。工房には鍵掛けて、結界張ってありますから。
まあ、いい子達なんで、立ち入り禁止と言ってある工房に勝手に入ったりはしませんよ?黒い笑顔で説教する主人公とかは居ません。居ませんとも、ええ。
最早すでに、真田屋の食べ物は彼の手を離れて、月と詠に任せてあるので、食べようと思えば皆そちらで買いますしねー。
コメント by くろすけ。 — 2012/03/26 @ 10:37
金ならある!
是非とも一回言ってみたいもんですよね
魚介系の出汁があるなら、Wスープで麺系が進化しそうですね
コメント by 蒼空 — 2012/04/05 @ 23:40
> 蒼空様
一度、親に言ってみたいと言ったら、言うだけなら言えるよ?とさらりと笑われた事がありますが。
日本人として、魚介と昆布は必須でしょうとも。
これで和食がレベルアップ!
コメント by くろすけ。 — 2012/04/06 @ 12:00