「まだ目がしょぼしょぼする……」
朝早くに目が覚めてしまった青年は、自分用の天幕から起き出して、大きく身体を伸ばす。
こちらに来て、完全に朝型の人間になってしまった。太陽が出ている時間が活動時間である以上、仕方のないことではあるが、慣れるまでには結構な時間が掛かった。
現代人としては、夜七時に眠れるかと言いたいところだ。
「おはようございます、様」
が、目の前の将軍様は、こんな時間からしゃっきりはっきりと背筋を伸ばしていらっしゃったりするわけだ。としては、苦笑いする以外の行動は考え付かない。
「おはようございます、関羽殿」
稟曰く、劉備軍の者が民衆に近付くのは現在基本的に禁止しているそうだ。機密保持がその理由なのに、関羽が何故ここにいるかといえば、連絡係だった。
「将軍のお手を煩わせて申し訳ない」
「いえ。そちらにも事情があるのは、わかっております。こちらこそ色々ありがとうございます」
は関羽の言葉に困ったように笑うしかない。彼らには彼らの目的があるのだから。
何か用がある場合は、連絡係である関羽を向かわせると伝えてあるそうだ。負債がたまりっ放しの劉備軍としては、否とも言えなかったらしい。
それを聞いた時、彼は稟に思わず聞いていた。
「よく、それで納得したな。自国民を人質に取られているようなもんだぞ?」
「納得したというより、せざるを得なかったという事でしょうね。何せ、彼らの民が喜色満面で我々に感謝を言うのですから」
「まあ、待遇は雲泥の差だからな」
稟の報告には小さく肩を竦めた。
民衆を保護して、たった一日。一日で、曹操軍は民衆の人気を獲得していた。
元々、曹操軍が民への略奪を厳禁としている事や、領内の治安の良さなどが噂で領外へも流れていた事も大きな要因と言えるだろう。
現在、荒れ果てる大陸の中で、最も治安が良く安定しているのは、間違いなく曹操領であることは疑いなかった。
「ま、民を徒に傷つける事はない事を知ってもらえるだけでも、万々歳だけどな」
目が覚めたばかりの身体を大きく伸ばしている青年を、関羽は嫌うことができなかった。
自分の主を痛烈に批判した相手にも関わらずである。
「貴方は不思議な方ですね」
「ん。よく言われる。俺は普通にしているだけなんだけどな。それを言うと、全員に冷たい目で見られる」
「ふふ、それは仕方ありません」
「……へえ」
「何か?」
自分を見て、何かに気付いたようなに、関羽はどうしたのだろうと首を傾げた。
「いや、美人の笑顔はいいもんだなと」
「なっ!?」
「だって、ずっとここに皺を寄せてるからさ。うん。凛々しい顔も凄くいいけど、やっぱり笑顔が一番だね」
眉間を指で押さえて気の抜けた笑顔を見せる青年に、関羽は頬を染める。
武器を持った『敵』が目の前にいるのに、彼のこの態度が余裕なのか諦めなのか素なのか、実直な彼女には判断がつかない。
だが、彼を良く知る者が見れば、深々とため息を吐く光景がそこにあった。
その日の夕刻、は久しぶりに命の恩人に出会うことが出来た。
「お久しぶりです、趙雲殿。覚えておられるでしょうか?」
「覚えておりますとも。あの時の御仁が、音に聞こえた殿とは思いもしませんでしたが」
稟を連れて現れた彼に、彼女はあの日と同じく朱塗りの槍を手に出迎えてくれた。
「こんな事になるなら、風も連れてくれば良かった」
「息災であれば、また会うこともありましょう。稟も元気そうで何よりだ」
軽く肩を竦めるに笑いかけながら、趙雲は彼の後ろに立つ友人にも声を掛ける。
「貴女もね、星」
稟も久しぶりにゆっくりと話せる友人に微笑んだ。
「ま、言葉だけではあれなんで、手土産を持参してみました」
は両手で抱えていた壷を軽く振ってみせる。
「俺の故郷の酒。つい先日、試行錯誤の果てに漸く作れたんだ」
「ほう?それは是が非でも味わいたい一品ですな」
「はは、酒好きと聞いていたからね。楽しんでもらえると嬉しいな」
趙雲と稟、魏の酒好きである霞と、を監視していると主張する関羽と一緒にささやかな宴会を開く事になった。
しばらく飲んだり食べたりと、笑って過ごした後、趙雲が口にした言葉に、は小さく首を傾げる。
「……正義の味方?」
「ええ。殿は、そういう願望はないのですか?」
盃を手にした趙雲は、興味深そうに隣で杯を重ねている黒髪の青年を見つめた。
「趙雲殿は、それになりたい?」
「勿論ですとも」
「ふむ……これは、あれだ。『喜べ、少年。君の願いは漸く叶う』というやつだな」
は彼女の言葉に、ある腹黒神父の台詞を思い出して笑っていた。
「む。人の決意を笑うとは、あまり誉められた事ではありませんな」
「いやいや。虐げられる人々が現れるのを心待ちにしている貴女ほどでは」
くすくすと笑う黒髪の青年に、酒を美味しそうに呑んでいた趙雲だけではない。隣で聞いていた関羽も眉を寄せる。
一緒にいる霞は、やれやれと言いたそうにしているだけで止めようとはしない。意図的にが喧嘩を売っているのは明らかだ。
「人を侮辱するなら覚悟を決めていただくが?」
趙雲は近くにおいていた龍牙に手を掛けた。
「貴女は正義の味方になりたいと言った。正義を定義するには悪が必要だ。そう、弱き者を虐げる悪が。貴女はその出現を心待ちにしていると言ったのだが……?」
「……!」
真っ直ぐにこちらを見つめてくる黒い瞳に、彼女は何も言えなかった。
「俺の望みは、英雄やら正義の味方やらが必要ない世界を作る事。俺の国に軍隊へこんなことを言った人が居る。『君たちは、在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく終わるかもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、君達が国民から歓迎される事態とは、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉をかえれば、君たちが『日陰者』であるときの方が、国民やこの国は幸せなのだ。耐えてもらいたい』。俺はいい言葉と思っている」
は防衛大学第一回卒業式で、時の首相が述べた言葉を一部改変して伝える。自衛隊と軍隊の違いを説明していたら、完全に夜が明けてしまう。
「貴女の理想は人としては好感が持てる。だからこそ、この言葉ををしっかり理解していただいた上で、もう一度ゆっくりと話をしたいな。貴女のような美人との会話は、話題が何であれ大歓迎だ」
酒を飲み干したは、張り詰めた空気を緩めるように優しく微笑んだ。
「……さてと、俺はだいぶ飲んだから、これにて失礼させてもらおうかな。霞、程々にしておいてくれよ?」
「ははは。うちを潰したいなら、これの三倍は持ってこんとな~」
「今日だけで全部飲み干さないでくださいね?」
酒の入った入れ物を軽く叩いている霞に、を送ろうと立ち上がった稟が少し呆れた声で話しかける。
「わかっとる。明日に影響は残さへんって」
「その辺は信じてる。俺も寝不足で役立たずにならないようにするよ」
軽く笑って新たな一杯を飲み干した霞に、は小さく肩を竦めた。
「頼りにしてるでー」
手を振りながら天幕へ戻っていく彼に、見張りの兵達が親しげに声を掛けている。
「張遼殿」
「なんや?」
酒を飲む手を止めた趙雲に、霞は笑いながら応じる。
「先ほど、殿は私の理想に好感が持てると言われた。では何故、桃香様にああいう態度をとられるのだ?」
「あー、は王様っていうモノに厳しいからな。華琳だって、いつも評価されとる。少しでも王たるに相応しない思うたら、はハッキリ言うやろうな。人として好感が持てるからっつって、王様がそれをやったら駄目って事もあるやろ?」
「桃香様が王に相応しくないというのか?」
「せや。少なくとも、はそう思うとる。今の評価を覆すのは、並大抵じゃすまんで?」
声を荒げる関羽を、霞は恐れることなく真っ直ぐに見返す。
「あれの理想とする王様の話を聞いた事があるけど、半端の努力じゃたどり着けん。第一、あんたんとこの王様は、切って捨てる事が出来ん事を証明してしもうた」
「な……」
「自分の大切な人を一人助ける為に、兵士と民全員を危険にさらす決断をした王様は落第ちゅうことや。からしたら、な。さてと、うちもそろそろ休ませてもらうわ」
悩み始めた関羽たちに軽く手を振って、霞はふらりと立ち上がった。
「殿は面白い方だな。甘いのか、厳しいのかよくわからぬ」
彼女の後に趙雲が流れるように近づき声を掛けた。
「まあ基本的には甘いで?特に女の子には甘甘や」
「ふふ。先ほどの様な事をさらりと口にされるとは、思いもしなかった」
趙雲の言葉に霞は苦笑いを浮かべて答える。あの千里眼は時々無意識で口説き文句を放つので性質が悪い。
「あれが『普通』なんやと。ほんまかどうかはわからんがな。まあ、明日は気を付けや?」
「山賊だったか?」
「ああ、だいぶ減っているんやけどな。それでも、まだ沸いて出る」
「千里眼のお手並み拝見と行けるだろうか」
やれやれとため息を吐く霞の隣で、趙雲は楽しみだと言いたげに目を輝かせる。
「さて……ウチの連中は過保護やからなぁ……」
霞は達観した目で、青年の休んでいるだろう天幕の方を見つめた。
「稟、ちょっといいか?」
は霞と共に、軍師に声を掛けた。
それだけで彼女は察したようだ。眼鏡を指で押し上げながら、二人に小さく頷く。
「地形的にもそろそろだと思っていました。やはり、予想通りですか?」
「ああ。崖の両上に隠れてる。猟師が背後に迫っているのも気付かずにな」
現在、山賊たちの背後には、別動隊が迫っている。
「では、我々はこのまま知らぬ様子で。霞殿、こちらの兵の指揮はお願いいたします」
ニヤリと笑う青年の言葉に、稟は霞に指示を出す。
「承知や。任しとき」
霞は飛龍偃月刀で軽く肩を叩いて、不敵に笑った。
「殿は安全を考えて、劉備殿と……」
「稟、君が俺の安全を優先してくれているのは、十二分に理解している。だが、お願いだ。それは勘弁してくれ……」
は思わず稟の言葉を遮っていた。
「仕方ありませんね。無茶だけはしないでください」
この世の絶望をまとめて練り上げたような彼の表情を見た彼女は、小さくため息を吐いて妥協してくれた。
「しない。ってか、出来ねー」
彼の周りには、凪の直弟子とも言える連中が揃っているのだ。
何を吹き込まれたのか、彼に向ける視線は崇拝に近いものがあって背中がむずがゆい。
「まあ、後ろから情報を回すのに徹するよ。あとは味方に当てないよう、矢を射ています」
「の腕なら安心や。援護よろしく頼むで」
「では、作戦を開始します」
崖の上から攻撃を仕掛けた山賊たちは、自分たちの勝利を疑いもしていなかった。
軍が相手でも負けるはずがないと、思いこんでいたのだ。
自分たちの頭上に死神の鎌が落ちてくるその時まで。
崖の上から聞こえてきた雄たけびに、母親や子供たちは怯えた表情を浮かべる。
「山賊!?」
「大丈夫。君達を無事に領内を通過させる為に、俺たちはここにいる。子供達の側に居なさい」
予め決めてあったように、子供達を馬から下ろして、馬上の人になった黒髪の青年は、彼女達を安心させるように微笑んだ。
「一人も逃すなっ!日頃の訓練の成果を発揮すれば、問題ない。この国で賊に身を堕した者がどうなるか、その身に教えてやれ!」
目の前の青年が、そう大きくはないがよく通る声を発すると、騎兵達の表情が引き締まったように見える。
「、様?」
「すぐに終わるが、万が一はある。だから、気をつけなさい」
安心させるようにもう一度笑ってくれた彼の背中を、子供達と共に母親たちは見続けていた。
お久しぶりです。まだ見捨てられてないといいのですが。
はい、まだ劉備軍と一緒です。星さんを口説いているのか、喧嘩を売っているのか微妙な主人公。でも、彼女が正義の味方を目指すなら、あの黒神父様の言葉は言っておかないとね。ということで、言っておいてもらいました。
今後、どうなることやら、はてさてー。次はもう少し早めに更新できるといいなぁ。
コメント by くろすけ。 — 2012/05/14 @ 00:04
キター!楽しみに待ってました!お仕事がマジでお忙しいようですね、やはり社会人になると大変なのか・・・・・。
確かに趙雲に言峰のセリフは効きそうですね、はてさて理想を抱いて溺死するかどうかww
諒さんの千里眼を見た蜀陣営の反応が気になりますねぇ、はわわとあわわは特級の危険人物扱いするようになるんだろうかwwてかこの妊婦さんの夫はいるんですかね?劉軍の兵なのか庶民なのかはたまた未亡人かww
無理せずゆったりやってくだせぇ、でも失踪は勘弁でさぁ
コメント by ヨッシー喜三郎 — 2012/05/14 @ 19:07
>ヨッシー喜三郎様
よかった、見捨てずにいてもらえて。学生時代が懐かしいくろすけ。です。
趙雲さんのシーンはずーっとあたためていたので、公開できてよかったです。
千里眼を発揮するほどの事は起きないので、出来る奴程度の評価で終わってくれるといいなぁと続きを書いているところです。
お母さんにはちゃんと旦那さんがいるので、お持ち帰りしたりはありません(笑)
まあ、旦那さんごと移住という事は十分にあり得ますけどね。
次回は少し早めに更新できればいいなーと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
コメント by くろすけ。 — 2012/05/14 @ 23:22
よかった……失踪してなくて……
何かあったのかとしんぱいしてしまったではないですかああああああああああああ!!(号泣)
星さん陥落間近な雰囲気……。むしろ落としちゃえww
というかおとしてくださいお願いします。
とまあ、失踪してなくて安心した瑪瑙こと、かいぐんでした。(漢字変換がメンドイので平仮名でご勘弁を(汗)間違っても海軍じゃないですからねー?)
コメント by かいぐん — 2012/05/15 @ 11:04
>かいぐん様
ありがとうございます。大丈夫ですよ、閉鎖する場合にはちゃんと報告の上、全削除します。放置の上、失踪はないですので、その点だけはご安心ください。
久しぶりの更新になってしまいましたが、楽しんでもらえたなら幸いです。
またの更新の際にも是非お越しくださいませー
コメント by くろすけ。 — 2012/05/15 @ 11:16
カモン!星!!
ソッチに往けば、諒君”に”膝枕しておちょくれるぞ
寧ろ霞と共謀して更なるイタズラを(笑
けど、意外に初心だから反撃されると可愛い反応が…
と何時もの如く妄想爆発しましたが、正義の味方っていうのも考え物ですね
聡明な彼女なら新たな目標を設定して、内外共に更に強く美しくなる事間違い無し!
コメント by 蒼空 — 2012/05/22 @ 00:48
>蒼空様
コメントありがとうございます。
主人公は【正義】の味方は、しないだろうなーと思います。彼は気に入った方の味方ですから。
またぼちぼち更新が出来ればいいなぁと思っています。すみませんが、まったり待っていてください。
コメント by くろすけ。 — 2012/05/22 @ 16:53