午後、王座の間で政務を行っていた王様は、広間の片隅に置かれた時計に目をやり、少し首を傾げた。
「そろそろ帰ってきても良い頃だと思うのだけれど、報告はないのかしら?」
「はっ、昨日の時点では特には……何か途中で予定外の事があったのでしょうか?」
「それならそれで連絡が来るはずでしょう?……少し休憩にしましょう」
春蘭の言葉に、華琳は筆を置いて立ち上がった。
「あ、華琳様、春蘭様も!」
物見櫓の一つを占領していたのは、錚々たる面々だった。
非番の季衣をはじめ、軍師の風に真田屋の仕事が終わったのか、月と詠もいる。
彼女達の邪魔にならぬように物見の兵士は、櫓の隅に立っていた。
「まったく、困ったものね」
「お前達、仕事は……」
苦笑する華琳の後ろから春蘭が最後まで言う前に、風と詠が持ってきていた書類を掲げて見せる。
「お兄さんは、自分のせいで仕事が進んでいないなんて許してくれませんからね~」
「だから、ここにいるのは、ここで出来る仕事を持っている者だけよ」
詠の言葉に周囲を見回せば、確かに現場で仕事をしている者たちは来ていない。
恋や凪など朝から陣取っていそうなものなのに。
「姿が見えたら教えて欲しいと旗は用意していますけど」
お茶を淹れてくれた月が示した先には、黒に銀縁の旗が置かれていた。
「あら。出来ていたのね」
「はい。漸く素材が揃ったとの連絡が入りました。これはその試作品です」
月の言葉に、華琳は牙門旗を小さくしたようなそれにそっと手を伸ばした。
黒く染められた布地に銀糸で縁取られたそれは、以前彼が欲しいといっていたものそのものだった。
「そう。……良い出来ね。完成品も期待していると伝えておきなさい」
「はい、必ず」
自身も職人である青年は、商品の感想を喜ぶ。悪いところは次回の改良点に、良いところは本当に嬉しそうに聞くので、華琳達も忌憚のない意見を伝えるのが慣例となっていた。
「姿が見えたら、旗を上げるのね?」
「ええ。恋や凪に何度も念押しされたもの」
詠の言葉にその様子が簡単に想像できて、華琳は小さく笑ってしまった。
「そう。では、後でね」
「はい、また後で~」
名残惜しそうな春蘭を連れて帰っていく華琳に、風は笑顔で手を振った。
そして、夕暮れ時になって漸く物見櫓に黒の旗が翻る。
連絡が回っていたのだろう。城にいる主だった者達が城門へと集まってきていた。
「ふふ、諒は人気者ね」
覇王様もやってきた以上、咎めるものはいない。
「んん?」
城壁の上で、双眼鏡を覗き込んでいた真桜が首を傾げる。
「どうした?」
「いや……その、師匠の姿がないような」
「何?」
真桜から双眼鏡を受け取り覗き込んだ秋蘭も、てっきり先頭の馬に乗っていると思われた黒髪の青年の姿が見えないことを確認した。
「な、おらんやろ?」
「しかし、あやつに何かあれば報告が届くはずだ。もう少しで彼らが帰って来る。それまでは待つとしよう」
万が一にも、あの青年に何かがあったのなら……。そこまで考えて秋蘭はすっと心が冷えるのを自覚した。
「諒はどうしたの?」
先頭にいた神速の武将に、華琳は馬から降りてきた彼女に声を掛けた。
「ああ、後ろにおるで」
彼女が厚手の麻布で覆われた馬車を示したので、華琳はそちらへ足を向ける。
その馬車で毛布に包まり横たわる青年の姿が、彼女の視界に飛び込んできた。
「諒!」
「ん……」
何があったのかと駆け寄る彼女の視線の先で、彼は実に気持ちよさそうに寝返りをうった。
「この……」
気の抜けた表情の青年を見下ろした華琳の額に、青筋が見えたとしても仕方がないだろう。
「まあ、怒らんといてやってや。ここに戻るまでに、そらもう、寝る間も惜しんで何か作りよったからな」
霞が華琳の後ろから説明している間に、稟はちゃぶ台の上に置かれていた箱を王へと差し出す。
「こちらになります」
箱の中身は、印刷用の金属活版と何枚かの書類だった。
揃えられた書類は、新規に加入する元義勇兵と領民の詳細の一部だった。
名前、性別、続柄、年齢、家族構成、住所などが所定の場所へ記載されている。
「戸籍、と言ったかしら」
一定の書式にまとめられたそれを見て、華琳は何かを思い出して小さく笑った。
今後、この書式に揃えて全領民の資料を作らされる事になるだろう。
何年かかるかわからないが、統治するためには、この資料が絶対に必要だと、彼は言っていた。
「……わかったわ。でも、いい加減起きなさいっ!」
華琳は頭上で会話がなされているにも関わらず、起きる気配の全くない諒の頬をぎゅっとひねり上げた。
「い、いてててっ!」
「起きた?」
漸く目を開けた青年は、目の前に立つ王様の姿に首を傾げる。
「あれ。華琳?」
しばらくキョロキョロと周囲を見回した後、掛けられた毛布に気まずそうに苦笑した。
「あー……、俺、寝てた?」
「そらもー、ぐっすりや。ここに、跡ついとる」
霞は見上げてくる諒の頬を指差す。
「でも、華琳がいるって事は城に着いたんだな。あー、やっと帰ってきたのかー」
固まっていた身体をほぐしながら起き上がると、実に気の抜けた笑顔を浮かべる。
「ただいま、華琳」
「……お帰りなさい、諒」
漸く帰ってきた。
その気持ちの詰まった言葉に、華琳も仕方ないわねと笑ってしまった。
「では、報告を始めなさい」
「……それは構わないんだが、何故俺だけこの格好……いや、なんでもないです」
王座の間に連れてこられて、諒は彼女の前に正座をさせられている。
文句を言おうとしたが、一睨みで色々諦めた。
諒は少し後ろに立つ稟と霞と共に報告を始める。
幾つかの質疑応答があったものの、特に問題なく報告は進んでいく。
「……以上だな。同行者の3分の1が残る事を希望したのは、俺としても意外だったが」
書きまとめていた書類を見ながら、諒は報告を締めくくった。
「なるほど。領民を増やすと同時に、敵の戦力を削ってきたのは評価に値するわね。でも、貴方はまだそのまま」
正座を崩そうとしている青年に、華琳から現状維持の指示が降る。
「なにゆえ……」
「幾つか報告を受けているから、その確認をしたいのだけれどいいかしら?」
理不尽だと訴えたい表情をしていた青年の額に、たらりと汗が伝う。
「まず、関羽と手合わせしたんですって?」
その言葉に、滅多に手合わせしてくれない青年に対して、手合わせしたい組から重圧が押し寄せる。
「い、いや、あれは敵の戦力把握というか、その、情報収集の一環でっ!」
「趙雲と真名を交換したとも聞いているわ。他にも何人かいるそうね?これも情報収集なのかしら?」
華琳が付け加えた言葉に、王座の間に氷嵐が吹き荒れた。
「あ、あのな。別に手を出したとか、そういう訳じゃないぞ?」
一瞬、このまま凍りついていたいと思いながらも、諒は周囲を見回して声を上げる。
「へえ?じゃあ、理由を聞かせてもらおうかしら?」
ここで返答を間違えれば、確実に死ぬ。
笑顔の覇王様に、武器に手をかけているその忠実なる武将達に、諒はゴクリと唾を飲み込む。
いつもなら味方をしてくれる確率の高い当代最強と警備隊副長も、武具の具合を確かめている辺りに涙が出そうだ。
近年まれに見るほどの努力に基づいた交渉の結果、彼は希望者全員に一時間の手合わせもしくは半日デートを約束して正座から解放された。
「それで結局何人と真名を交換したんですか?」
『命があるって幸せ』と心の底から実感していた青年に、ちょっとまだ怒ってますよと言いたそうな月が尋ねる。
「ああ、星の他は孔明と張飛だな。後、白蓮……公孫賛だな。出来れば、一人くらい引き抜きたかったんだがな。ま、今後に期待するとしよう」
つまりは劉備軍の主要武将全員である。
「劉備は?」
何気なく尋ねた詠の言葉に、諒は黒い笑顔で笑い始めた。
「……俺はもう二度と言葉が通じない阿呆とは話をしたくないね」
くくくっと悪役も真っ青な表情の彼に、華琳は霞と稟に視線を向けた。
「……何があったの?」
「ちょっと、面倒な事があってな」
霞は思い出しながら、軽く首を振った。
「何?」
「向こうの王様に真名を交換してくれって迫られとった。勿論、断固拒否しとったけどな」
「へえ?」
部屋の温度が下がった気がする。
「人気取りの為に行った行動に感銘を受けたのだそうです。さすが天の御遣い様だと」
指で眼鏡を押し上げながら、稟はため息を吐いた。その彼女の隣で、霞も小さく肩をすくめる。
劉備に対する魏首脳部の評価は底辺にたどり着いていた。
「……真田がこうなるのもわかる気がするわ」
珍しく青年を貶さなかった桂花の言葉に風も頷いている。
「最後の方は、陣から出られんようになってしもうた。さすがに、あっちの連中も申し訳なさそうにしとってな……」
折角の視察だったのに、最後の方ではそれすらも出来なかったとなれば、もう何のために同行したのかわからない。
「しかたがないので、我々が視察をして真田殿に報告をいたしましたが……」
「俺は実際にこの目で見たかったんだよっ!」
まだ黒いものの流出がとまらない諒の魂の叫びにも似た言葉に、全員が小さくため息を吐いた―――
漸く帰宅ー!
心配されて、ヤキモチやかれて、まあ、色々諦めなよー。って感じですね。
そして、着実に埋められていく外堀。
気付けば断れない状態に陥っているであろう主人公に、生温い声援を。
コメント by くろすけ。 — 2012/09/03 @ 23:05
KY劉備とあう→まともに視察もできない
公式できましたね。
私だったらどうしてたかなー……殴ったかもしれん……
コメント by かいぐん — 2012/09/05 @ 13:30
更新お疲れ様です!
やったね華琳ちゃん領民が増えるよ!とまぁその影では諒さんが劉備の犠牲になってたりしましたが、劉備としては行動・結果こそが大事でその目的は気にしないんすかね?民を助けてるならいいじゃない、みたいな?
敵国の将に同情されるってどんだけの付け回されっぷりだと言いたいww
もちろん移民にあの妊婦さんは含まれるんでしょうね!?
こっからは一回蜀に攻められてそして西遼へ~でしたっけ?そろそろ魔術も使っていかないと読者が忘れちゃうww
コメント by ヨッシー喜三郎 — 2012/09/08 @ 18:22
正座イベント来たネ
忠犬の行動に涙を禁じ得ません
まぁ慕われているからこその苦行だと思いますが
デ…デートだとぉ~~!
でも半日という事は、お子ちゃま組は朝からで、財布以外は安全ですが、年長組の昼?夜?からは、色んな危険がありそうで楽しみですね(笑
勿論、忠犬好きな自分としては、この戦で疲れた諒君を忠犬製膝枕で癒すイベントを妄想してしまいました(汗
コメント by 蒼空 — 2012/09/09 @ 00:53
皆様いつもこめんとありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。
>かいぐん様
一応、殴ると面倒くさそうだったので、自重した感じ?
主人公的には会うのもイヤ!w
>ヨッシー喜三郎様
劉備の目的が『民のため』ですからねー。目的も行動も結果も、自分達がしたいけど出来ないことをしているので、文句を言いようがなかったと思いますね。
むしろ、「一緒にやりましょうよ、主人公さん」。でも、主人公的には「だが、断る!」みたいな。
日毎に機嫌の悪くなる主人公に、平謝りのちびっこ軍師と関羽さんって感じでしょうか。
こっからは、袁家滅亡後、蜀返り討ち、西涼統合、三国統一……かな。各パート毎に内政はさむって流れでしょうね。
そろそろストレス発散に一回使っておきたい魔術。何にしようかとワクワクと考え中です。
>蒼空様
正座イベントは必須w
ワンコーズ的には、心配させられましたーって感じで。
デートor勝負なので、武将の面々は悩んだ結果、デートを選びそうですけどね。
私は抱き枕を所望します!w
コメント by くろすけ。 — 2012/09/09 @ 14:49